南京事件FQA 【1.人口問題関係=>1.陥落時の南京の人口は20万ではなかった】への反論

2020年02月07日 19時00分00秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>1.陥落時の南京の人口は20万ではなかった】という南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論してみたい。
当方の記事で《1937年の南京南京攻略戦前後での【二〇万人しかいない人間を、三〇万人殺すことはできない】のは正しい》でほぼ論じたので読んでいただければ、ここに関する反論はご理解出来ると考える。
それでも、まぁ、教育的配慮で、もう一度反論を試みておく。


【(A)否定派の主張】
《陥落時の南京に市民は20万人しかいなかった。》
第1の論拠 当時の南京の人口
以上の資料を総合してみると、当時の南京の人口は、12〜13万から最高20万の間とみてまちがいない。
(田中正明『南京事件の総括』p161より。漢数字はアラビア数字に置換)


【当方からの補足】として、そもそも田中氏は【南京城内にいた住民は何人か】を前提とされている。
それは、国際安全委員会の【史料】や東京裁判での【南京暴虐事件】とされる事案が、【南京城陥落後】の【占領過程】と【占領期】に起こったとされているからである。(田中氏の書かれた当時の認識からすれば当然な事と考える。)

 


【1「南京」の範囲の定義】
①南京安全区…南京城内の一区画
②南京城内…城壁に囲まれた範囲
③南京市…2に城外に隣接する市街地および近隣の農村部(郷区)を加えた地域
④南京特別市(南京行政区)……3を含む江寧県など六県から成る広大な行政区


【分析】
①②③④は、南京で定義。
①は欧米人が中立(非武装)地帯としたエリア。
③南京城には、城外にそれぞれの門外に門前街がある。および【郷区】には要塞・防塁などの防衛拠点がある。
12月8日から始まった、堅壁清野作戦で、南京城壁の周囲の構造物は焼却されている。

④はスマイス報告(統計学を用いた推測の為に使われたエリア)によるもの。

 


【情報1】
①南京市の人口は、1937年3月末の時点では101万9667人(首都警察庁調べ、笠原十九司『南京事件』p219)。
②城内とその周辺が約85万、郷区は約15万である。
③その減少数。


【分析】
②の出典に明記が無い。『南京市政府行政統計報告』民国二十四年度(同二十六年四月刊)(『南京大虐殺の証明』 洞富雄著)によるものか。【オイラの!】 2chネラーなりに一生懸命調べた南京事件 【完全否定論】--サイトより引用すると

  1. 引用《 
    『南京市政府行政統計報告』民国二十四年度(同二十六年四月刊)によれば、日中戦争勃発直前の民国二十五年(1936年)6月の調査の南京市の人口は97万3158人であるが、その大半は市街居住者であって、郷区(上新河区・孝陵区・陵園区・燕子磯区)の人口は合わせて14万8577人にすぎない。

【情報1への反論】
南京市の【郷区】の人口15余万は、蘆溝橋事件すら始まっていない1937年の3月末の統計に過ぎないのなら、その後の【攻略戦直前の統計資料】がないのも事実。【郷区】にどれぐらいの【人口】が【残留】出来ていたのかは分からない。
スマイスは調査をしたという城内の数値として陥落間もなくの翌年3月現在の農家人口13万を挙げているが、郷区の人口とほぼ合致していてほぼ無疵と言う事になる。

 


【情報2】
①8月15日、南京に対して日本軍機による数か月に渡る渡洋爆撃が実行。
②南京市街は大きな被害により市民の脱出が開始される。


【分析】
【情報1】の為の減少要素。

【情報2への反論】
反論ではないが、①②によって、100万人都市からの人口流出が始まったという状況話。

 


【情報3】
①スマイス報告では、1年前の人口はちょうど100万余。8月・9月にかけて急減し、11月初旬にまた50万近くに戻った。
(『南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編』p251より)(ルイス・S・C・スマイス『南京地区における戦争被害』(1938年)より)
②スマイス報告の第1表に付された記述である(スマイスは報告で陥落当時の人口を20万〜25万としているが、郷区の人口を含めているかは明らかではない)。


【分析】
①スマイス報告は南京陥落後での1938年の次の時期の実施
 (1)農業調査の実地:3月8日〜23日迄(16日間)
 (2)都市調査
   (a)家族調査:3月9日〜4月2日(25日間)
   (b)補足調査:4月19日〜23日(5日)
   (c)建物調査:3月15日〜6月15日(123日間ぐらい)

【8月・9月にかけて急減し、11月初旬にまた50万近くに戻った。】という【調査】が成されたことは【この報告書】には書かれていない。【情報1】の④の情報は、バックの1931年の水害1932年の第一次上海事変後の「中国における土地利用」統計(L.Back, Land Utilization in China, Statistics.)からの推測されたものとされている。(『南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編』)
②スマイス調査報告は、江寧県を1931年の水害の被害調査のバックの人口数から推測している。表25で、江寧県の人口は433,300名としている。郷区の人口からの換算として1000人につき27名の被害と算出している。飽く迄も1931年の人口調査からの換算。

【情報3への反論】
11月初旬に50万という【数値】は、スマイス報告が翌年の3月以降からの調査であって、何かの【史料】の【出典】による【情報】ではない。日本軍が11月に南京に向けて進軍を開始したことは、国民政府に伝わっている筈で、後述の【情報8】の④にあるように、流動が激しい時期に正確な人口を調査したという【史料】は発見公開されていない。城門での厳格な入出管理資料があれば別だが、その様な【資料】の話は聞いたことがない。
スマイス報告はいろいろ問題点があるが、この江寧県などの数値は、6年も前の1931年の水害時の調査の人口を使って換算しているので翌年の第一次上海事変囲剿戦(*1)等々の【戦乱】を考慮に入れてない数値の使用は非常に問題である。

 


【情報4】
①日本軍が南京に侵攻しつつあった11月の中旬、国民政府は南京から重慶への遷都を決定。
②国民政府は遷都に600台の自動車と220隻の船舶を動員。
③一般市民の輸送力は低下し、船舶が少なくなり乗船切符は高騰。
④12月初旬には南京防衛軍司令官の唐生智は下関から浦口までの連絡船業務を停止し、城門を閉鎖した。
⑤そのため11月下旬から脱出できた市民、農民は多くなかった。
⑥城外の住民は農民主体であり、城内の住民と比べると遠くに疎開する資力がある者は少なかった。


【分析】
①②は、経緯。
③それから起こる可能性、記憶の酩酊した【角良晴】が、戦後の偕行社の編集長とのやり取りで示していた。
渡江停止と城門が閉められるまで、2週間程ある。その間は輸送可能
⑤⑥その後の状況の推測。安全区内の人間が【農業従事者とその家族】の割合は明確に示されていない。

【情報4への反論】
当時南京に残留したNYTのダーディン記者が12月7日から10マイル(約16キロ)の範囲の建物や障害物を燃やし続けていたと12月8日の記事にあるが、それ以前に郷区の人々がどのような行動を取っていたのか不明である。15万近い人口がどこに残留していたか不明のママである。
日本軍の【戦闘詳報】などには、これらの【民間人】を戦闘員として殺傷し【戦果】としているものは無い。中国軍兵と誤認の上攻撃されて殺傷されたり、中国軍との戦闘(砲撃・弾丸の流弾)に巻きこまれたケースもあったかも知れないが、そもそも【非戦闘員(民間人)】の【保護】と【避難】は、日本軍側の【責任】ではない。

 


【情報5】
①11月23日、南京市政府(馬超俊市長)が国民政府軍事委員会後方勤務部に送付した【書簡】「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万人と予想される難民のための食糧送付が必要である」
(笠原十九司『南京事件』p220より。漢数字はアラビア数字に置換)(中国抗日戦争史学会編『南京大』)
②11月下旬までには脱出可能な人間は脱出済み。
③日本軍に追われ江南地域からの避難民が移動して来た。
④南京戦が開始された時点で市内にいた民間人は40万〜50万であったと推定している。


【分析】
①推測値に変わりはないが、50余万という【数値】も【調査】による【数値】でもない。
②【情報4】の④から、17日程の期間がある。
③この出典は【不明】。何を元にいつ、どれだけの避難民が移動してきたか不明。
④【情報4】⑤⑥が【根拠史料無し】、【情報5】③④も【根拠史料無し】という状態での【推定】。

【情報5への反論】
の情報に関する【確度】がほぼ無いので、この50万という【数値】すらも【想像】の類になる。
信頼できる当時の状況を示す【史料】が必要となる。
②は、12月の7日迄脱出可能な期間があるので、想像としては【脱出】が試みられていたと考えられる。
③は【史料】がないので、【根拠】が全く無い。全くいい加減な印象操作目的の【想像】である。

このサイトの人物達が言う通りに大人数が南京【城外】に留まれたのであれば、
江南の地でも同様に残留出来たはずだからである。

こういう事が【矛盾】と気がつかない【知的水準】。

 


【情報6】
有名な「20万」という数字の根拠は何か。
「20万」の見える【文献】
①ラーベの日記の文書などである。
〔11月25日〕まだ20万人をこす非戦闘員がいると言うけれども。
〔11月28日〕警察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ20万人住んでいるとくりかえした。
(ジョン・ラーベ『南京の真実』文庫版P.70、P.77)
②国際委員会


【分析】
①②という【第一次史料】からの史料価値の高い【情報】。

【情報6への反論】
反論と言う事でもないが、当時の、城外の人口を測る資料もなく、日本軍の和記洋行前の宝塔橋街(名称変更:平和街)や上新河附近に避難民らしきの認識ししているようであり、そもそも問題は、ラーベ自身も日本軍の蛮行の中心は【城内】と考えているからであって、城外ではないということである。田中氏の認識もそれと同じく、このサイトの人物達の【認識】や【定義】と違うということである。

 


【情報7】
①各種資料には南京戦が近づくにつれて人口が減少する様子が記されている。
②推定人口は最終的に20万という数字に落ち着く。
③それを裏づける人口調査が行なわれた記録は存在しない。
④そもそも国民政府が大急ぎで脱出を図っていた慌しい時期に正確な人口を数える余裕などあったはずがない。
⑤20万というのは陥落の何週間も前から予想されていた大雑把な数字。
⑥南京の外国人たちは陥落時までに市民のほとんどが安全区に避難したと考えていた。
⑦彼らの資料にある「20万」は安全区の推定人口である。
⑧南京の人口と見なしていたのである。
⑨実際は安全区の外にも市民は残っており、陥落後に安全区の人口が増加したことで外国人は認識を修正した。


【分析】
①②は【情報6】の補足。
④⑤⑥⑦⑧は、【情報1〜7】による【20万人】は【推測】。
⑨2月以降25日以降に城内への出入が無制限になるので、それ以降は人口が増加したことを外国人は認識して修正した。【1.人口問題関係=>5.占領後に人口が20万から25万に増えたというのは嘘】に記載。

【情報7への反論】
当時の人口が、20万という【数値】が正しいものという【保証】はない。だたそれ以外の当時【史料】としての【数値】はなく、いくら【50万】という【数値】を挙げた所で、【実態】は判らないし、判る城内での【数値】で検討することが【優先】されるべきである。
なお、南京の人口の数値は、年々上昇しているのは事実であり、蒋介石・共産党連合軍との戦闘中という事を考慮しても増えていったことは日本軍と当時の行政担当者としての中国人の方々の秩序維持は良好であったと考えられる。

 


【以上情報1〜7の上での(A)の反論】
①外部と隔絶された段階、1月までに登記された城内の人口は16万程度である。
②これは子供や一部の老人が含まれていない。
実数は20数万だったと考えられる(外国人は25万と考えていた)。
④陥落前には確実に【それ以上】はいたわけである。
⑤陥落時に城外や郷区に留まっていた難民も存在したし、移動中の難民もいた。
⑥陥落時点の南京市の人口を正確に測定することは今となっては不可能だ。
20万ということはありえないのである。


【分析】
①15万というのは、16師団による【良民証】発行数。
②③後の南京自治委員会が引き継いだ調査で10万余りとなるので、総数25万と成る。
陥落前には【確実】に【それ以上=16万以上】にいたことは確かである。
⑤⑥⑦南京城内は、さしたる犠牲者は居ないことになる。

【《(A)への反論》の反論】
【情報1】から【情報7】で何が提示されてきたかというと、このサイトに後述される【城外の人口の資料】に出てくる城外に纏まった数値(幕府山でも多くて2万、宝塔橋街の保国寺にも7、8千、法雲寺(放生寺)にも人数不明、上新河鎭附近にも人数不明)居たと言うことである。そしてその不明な人々のうち、最大30万は殺害された事になるという【主張】となる。
語るに落ちるというのはこう言うことで、本来、国際安全委員会でも東京裁判での検察側の主張でも考慮されるべき【城内】には、ほぼ無傷と言うことが、【情報6】で少し書いた通りこのサイトの後述の【5.占領後に人口が20万から25万に増えたというのは嘘】での南京特務機関の南京班第1回報告(1月21日提出)の中で城内への出入を制限していた旨から(『華中宣撫工作資料』より)、人口移動はないという判断なので、日本軍の城内での【蛮行】は【虚偽】か【極少数】という極めて限定的なものになり、結果【城外】の【郷区】での【殺害】が主となることになる。日本軍の【戦闘詳報】や【陣中日誌】などの【史料】の中で、その様な【大量】の【民間人】を【発見】又は、【殺傷】下という【記録】は、偕行社の『南京戦史』などにも見当たらない。
又、東京裁判で提出された【二次史料】の【埋葬記録】というものがあるが、当方のこちらの記事【何度も言うのが教育なのですが、東京裁判の埋葬団体の崇善堂の証拠は破綻している。】でも書いたが、大規模埋葬を行った【崇善堂】のこの10日程重複した期間もある全体で【短期間(25日)】で埋葬事業を行うことは資材・資金・人員・人員輸送の面で不可能。しかも【シークレット(当時の欧米人・日本軍・日本軍属の史料に存在しない)】ではあり得ない。仮に紅卍字会の下請けならば紅卍字会の項目に書かれるべきだが、書かれてないのでそういう事もあり得ない。
この記事では、自ずと如何にも【城外】に【大量】の【民間人】が存在して、その大部分(最大30万/このサイトの【前提】が数量を過大に見積もる)が、日本軍に【殺害】されたという主張となる。陸の【遺体】は動かないので、そのような判断・分析・理解は絶対に無理である。城内も崇善堂(当方は活動自体を否定している)【城内】7,295体紅卍字会【城内】5,448体合計12,743体である。そこでこういった【土下座を強要したい人々】は、【崇善堂】の埋葬記録の【城外】の記録に縋らざるを得無い状況なので理性的に判断が出来ていない。他に埋葬情報として【価値の低い】もので南京市衛生局 9,317体、紅十字会南京分会の22,371体(『南京事件資料集 中国関係資料編』から抜粋)(*2)があり、紅卍字会・崇善堂もそうなのだが【一次史料】が公開されているわけではありません。南京市衛生局は、南京自治委員会所属であるので、阿羅健一氏が発見した三冊の『中華民国南京市政概況』『南京政府 行政統計報告』『南京』(南京日本商工会議所編)(*3)などに記録が残ってないのはおかしく、これの詳細も不明でどこで何時何処に埋葬したかも書かれていないことからも【信憑性】は落ちるものと言える。
そもそも南京攻略戦は南側と東側からの攻撃であり、そのエリアにも中国軍の防衛戦・防塁・陣地が構築されていて種々に戦闘が行われている。【大量】の【非戦闘員】が【目撃】されたという【史料】は目にしたことがない。第六師団(戦後南京軍事法廷で処刑された谷寿御中将の部隊)が、江東門附近での敗残兵との交戦の結果を少なすぎるとして再計算させた所、最初の目算よりも減ってしまったという事実があり、部隊の戦闘詳報などの目算は【多く見積もられる】【カウントされたものではない】と言うことである。同じく南からの雨花門への攻略に取り掛かった第114師団や南東から光華門(洪武門)・通済門・武定門を攻略した第九師団の【道程】でも【非戦闘員】を含む【大量】の【戦果】として【殺害】を挙げた報告など存在しない。岡野君江と言う人物が「第九師団と南京事件」で第九師団の捕虜殺害と違法行為を糾弾する論文を書いているが(*4)、ここの中の記述に於も【大量】の【殺傷行為】が行われたという【史料】の提示はない。因みに単に【捕虜】や【非戦闘員】への散発的な【殺傷行為】を示したもので、【原因】が述べられておらず【違法】であるという【立証】は成されてないのは言う間でもない。【(A)の反論】の③で書いているように城内に関しては実数として20万の推測と言う事は否定出来ていない。

結果として、この南京事件FQAの【陥落時の南京の人口は20万ではなかった】記事では、
【否定派に反論】するどころか【自らの墓穴を掘って】【主張が破綻】してしまったことになる。

 

 

【参照サイト・論文など】


(*1)第一次国共内戦 1927年から1937年 wiki 【Link】

(*2)【オイラの!】2chネラーなりに一生懸命調べた南京事件 【完全否定論】氏のサイト=>【第26項】『埋葬遺体数』と『南京の不幸な市民』【前編】 【Link】

(*3)松尾一郎氏のサイト【南京大虐殺はウソだ】=>南京事件(南京大虐殺)がなかった18の根拠=>【7、崇善堂11万のウソ】 【Link】

(*4)岡野君江著【論文】『第九師団と南京事件』 【Link】


Twitter見物 その2

2020年02月06日 18時50分38秒 | 1937年 南京攻略...

Twitter見物 その2


Daisy@Daisy18946782 フォロワー数 0
多くの日本人は、私が何万人もの日本人の命を失ったので、私が原子爆弾を落とした後、私が非難されることを後悔すると思うでしょう。 しかし、私はそうは思いません。 私は自分の目で南京大虐殺のドキュメンタリーを見ました。そして、日本兵が銃剣で中国人妊婦の腹を突き刺すのを見ました

gg哒哒@gg09479457 フォロワー数 0
多くの日本人は、私が原爆を落とした後、良心の呵責を受けることを後悔すると思っています。何故なら、私は数万人の日本人の命を失わせました。でもそうは思いません。南京大虐殺のドキュメンタリーを見たことがあります。日本の兵士が中国の妊婦のお腹を銃剣で突き破ったのを見ました


 

どうもチャイナの五毛党と言われる連中の反論コメントなのだがねぇ。
主語が【私】になっているので、面白いねぇ。
当方も、中国の方とやり取りした時に、自動翻訳を使ったのだが、こんな感じの頓珍漢な訳になって居ったのでしょうな。
それにほぼ内容が同じなので、同じ人物又は団体によるTLなのでしょうな。

南京大虐殺の宣伝ドキュメンタリーが【根拠】としているところが、知識レベルの【低さ】を感じますな。
まぁ、日本でも日本テレビ(よみうりテレビ)の清水潔氏の番組の内容を【真実】としてしまって拡散している連中が居るので、日本人として余り笑えたものではないのですがね。
どちらにしても、両方共々知的レベルの低さは変わり有りませんな。


マルキスト今だに元気ですな。

2020年02月06日 15時31分17秒 | 日記

Twitterを眺めていて、どうなのかなと言う【コメント】を見つけた。
日本人かどうか判らないが、このようなTLに【いいね】を押すような方は、731部隊の件にしても、南京城攻略戦についても【自分で深く調べた事が無い】方が殆どではないかという気がする。それか界隈系の組織的な活動の一環。少し前に共産党がSNSでの活動を奨励してましたからなぁ...

そして、1960年代当時のアカデミックが、共産主義・社会主義傾向の強いマルキストに牛耳られていたことを知らないのではないだろうかね。
つまり、安保闘争もあって、【法曹界】がそもそも【東大法学部】が【マルキズム】本拠地でもあったような時代であったのだから、当然の判決とも取れるであろう。
それをもって、最高裁の判決がとか、学界のコンセンサスはなどとか、いまさら【主張】しても、【知っている】方にすれば、【マルキズム】に汚染されている方達の発言であろうかと考えてしまう。
まぁ、反原発とか、反安倍、歴史修正主義とか言及する方の多くが共産主義・社会主義の国家や団体に何等かに係わっている方々と考えますわな。


Sonota@yuandundun フォロワー数 7,860
歴史修正主義というのは端的に言って「俺が信じたくないことは無かったことにしよう」という立場なので学問とは何の関係もなく、どんなアホな主張でもゴネ続けていれば「諸説ある」ことにできて大成功なんだな。さっきも「731も慰安婦問題も南京事件も意見が分かれてる」というツイート見た。
いいねの数 1,186

>>次の引用ツイート
董卓(不燃ごみ)@inumash フォロワー数 6,924
731部隊の人体実験について「諸説ある」みたいな形で逃げようとしている人がいますが、1997年の家永教科書裁判最高判決にて「(731部隊の人体実験は)本件検定当時学界において否定するものはないほどに定説化していた」と認め、削除を命じた国を違法と認定しており、学術的には「諸説」ありません。
いいねの数 6,257


 

>【俺が信じたくないことは無かったことにしよう】
そもそもこんな事を地でやっているのが、コメントを投げているご本人とか【いいね】を押した人々なのでしょうな。
調べた事が無いので分からないのですから、浮ついたコメントを真に受けるとはねぇ... ヤレヤレ....


酷い話だねぇ。贖罪意識を擦り込む為の虚偽の戦時宣伝書籍を又ばら撒くとはねぇ... 第6刷だそうな。ヤレヤレ...

2020年02月05日 21時17分46秒 | 日記


中公新書@chukoshinsho
「「虐殺」の構造」の副題を持つ、秦郁彦著『南京事件 増補版』の重版が決定。6刷となりました。日本軍の戦闘詳報、陣中日誌、参戦指揮官・兵士たちの日記など多数の資料を軸に据え、事件の実態に迫った一冊。日中双方の南京戦参加部隊の一覧、詳細な参考文献、人名索引を付しています。
https://twitter.com/chukoshinsho/status/1224942439741308929


 
当方の記事のこの辺を読んで頂ければ、どれだけいかがわしい書籍かその一端が判るのですがねぇ。
この様な【土下座を強要又は贖罪意識を擦り込むような書籍が重版されることは】嘆かわしいことですな。
騙されないことを祈るばかりです。
  1. 秦郁彦著述『南京事件「虐殺」の構造』をテキスト・クリテークする ダーディンその1
  2. 秦郁彦著述『南京事件「虐殺」の構造』をテキスト・クリテークする ダーディンその2
  3. 秦郁彦著述『南京事件「虐殺」の構造』をテキスト・クリテークする3
  4. 秦郁彦著述『南京事件「虐殺」の構造』をテキスト・クリテークする4

南京事件FQA 【0.「南京論争」の前に=>3.南京事件/南京大虐殺の呼称は何がいいか】への反論

2020年02月04日 22時02分56秒 | 1937年 南京攻略...

0.「南京論争」の前に=>【3.南京事件/南京大虐殺の呼称は何がいいか】

このサイトのこの記事の【主張】について反論してみたい。
この記事は、【南京事件FQA 【0.「南京論争」の前に=2.何を虐殺、大虐殺とするか】への反論】で述べた内容と重複する。
一応教育的に、再度、述べておく。
この記事は、【否定派】への【反論】として書かれているようである。一応【呼称】について反論する。


【否定派の主張】
①南京大虐殺という呼称に対して「虐殺」とか「大虐殺」という言葉は戦前にはなかった。
日本人に罪の意識を植え付けるために作られた言葉である。
③「大虐殺」は中国の「大」を翻訳したものである。


この【記事】の【目的】は①②③という【否定派の主張】を【否定】するつもりで、書かれているようである。

 


【呼称問題について】

【1.アトロシティ】
①1937年の南京の事件を南京大虐殺と呼ぶことに多少の問題はあるだろう。
②虐殺だけではなく、略奪、放火、強姦、暴行伴った。
③中国人に対する生命、財産、アイデンティティのすべてを踏みにじる犯罪行為だったからである
④これを表す適当な日本語はない。
⑤当時、外交官の石射猪太郎、歴史家の秦郁彦氏「南京アトロシティーズ(atrocoties)」、歴史家の洞富雄氏は【南京大残虐事件】。あまり広がらなかった。


【分析】

①は【アトロシティが】という【用語】について。
②アトロシティが【都市】での【殺害】を含んだ【蛮行】という理由。
③【都市】における【占領軍】による【行為】は【犯罪行為】だ。
④正確な【訳語】は、存在しない。
⑤【呼称】の一つとして試されたが、結果として日本では拡散・定着しなかった。

【1への反論】

当時の軍隊行動に於いて、第十軍及び第16師団、第6師団、第9師団、第5師団や第13師団の一部など、支那本土への上陸後急進に次ぐ急進と各地での散発的な戦闘を経て南京城にたどり着いて、そのまま戦闘状態に入っている。陥落後に占領と治安維持の為の掃討戦や式典(慰霊祭を含む)などで息つく間もなく疲労困憊で、全部隊ではなくその他の部隊はそれぞれの任務地へ赴くため移動している(*1)。慌ただしく忙しい日本軍に【アトロシティー】という【殺害・強姦・略奪・放火】また【欧米の報道】であるような【酩酊出来る程酒を飲んで】不埒な行動をなど行っている【暇】はない。
別に、南京戦やその前の上海事変(8月14日)が起こる前の8月2日の時点で、ソ連のタス通信(民間ではなく国家通信社)が【世界的大虐殺行動開始】と日・独・伊を名指しして【報道】している(*2)。他にも古代の伝聞物語の【アッチラ】(*3)という【キーワード】などが当時のベイツとティンパーリー(*4)との1938年3月21日のやり取りの中や東京裁判でのT.H.モロー検察官の【冒頭陳述】の中の【言葉】にも出てくる(*5)。この様な時期状況とは異なる【用語】が展開されるのは【戦時宣伝(虚偽)】における【慣用句】とか【様式美】と同列のものと考えれる。
アトロシティ(atrocity)自体の語源は、中世フランスのアポシィチ(残虐)とラテン語のアートゥロックス(ひどい、残酷な)、アタルゥ(煤黒い状態になった?)。From Middle French atrocité, from Latin atrox (“terrible, cruel”), from āter (“matte black”)、ラテン語のアタルゥ(āter)は火を表し、関連するイートリーム(atrium)は、炉の煙が屋根の穴を通っていくことからで、ラテン語の語源としては火災による廃墟を連想させるものであるようだが、実際の南京が火災によって廃墟になった事はなく、日本軍によるホワイトプロパガンダ映画である東宝製作の『南京』(*6)やイェール大学の画像(*6)からも【廃墟】になって居る訳ではないし、その後復興に伴い、年々人口が徐々に増えていったことなどからも【南京城内】が【廃墟になった】という印象とは全く異なるので、当時の状況と合致しない【用語】であったため当然ながら【定着】しなかったものと考えられる。単にこのカタカナの英語がイメージが日本人が持つ情緒と合致しなかった面も在る。
そもそも【2.何を虐殺、大虐殺とするか】で、【南京事件】は【南京大虐殺】を【含まねばならない】ので、【意図的】に【印象づけたい】という【目的】を持った【用語】である以上は、こういう記述は矛盾又は詭弁になる。
③の【犯罪行為】について、以前の当方の【国際法】関係の記事を読めば理解されると考えるが、しかも【アイデンティ】を【踏みにじる行為】が【犯罪】ではないし、そもそも当時の中国人にどのような【アイデンティ】(漢人、満洲人、ウイグル人、チベット人?)があったかも不明である。本当に【悪意】を持って【日本軍を犯罪者扱い】したいという【願望】が滲み出ている文章である。

 


【2.虐殺を表す英語】

①英語では南京大虐殺についてmassacreがよく使われる。
②slaughterは大虐殺を構成する個々の殺害事件について使われる
③暴行、強姦の義も入るrapeも使われることがある。
④genocide、holocaustは人種的絶滅を図る虐殺の意味が強く、南京大虐殺においては適当ではない。
⑤アイリス・チャン(Iris Chang)はあえて【forgotten holocaust(忘れられたホロコースト)】と呼んで人々の関心を喚起
⑥ ①②③④⑤の用語も単数・複数の別のない集合名詞である。つまり、被害者数は常にmanyであることを示している。大小の区別までを立てる習慣はない。


【分析】

①②③④は、英語圏での【語彙】の紹介。
④は、ジェノサイドやホロコーストの民族浄化を目的とする殺害・強姦・交配であるので適当ではない。
⑤は、④の例外的に使われた【インパクト】を狙った【宣伝文句】としての用法。
①②には可算名詞としての用法もある。
⑥【many】(大量)が内包されている【用語】である。

【2への反論】

④ジェノサイドとホロコーストと日本軍の【アトロシティ】を別にしていることは評価出来る。
⑤に関して【世界抗日戦争史実維護連合会】の協力・指示の下のロビー活動の一環として書かれたものであることを明記しないことと、実際の所④で【適当ではない】とこのサイトの記述者自身が書いているのだから、【インパクト】を狙った【事実とは異なった】【虚偽の宣伝文句】であるということを明記しないのは【安定の悪意】を感じる。【関心を喚起】等と言うのは苦し紛れの表現である。
⑥【slaughter】の他にも【bucher、slay、murder】等があるが、基本的には【数値】ではなく【状態】を表すものと考えると、massacre以外は【大量】を内包しているとするのは疑問である。マサカー(masscare)は、以前当方の記事で書いているので参考していただければ判るが、マサカーも古代フランス語や古代のラテン語から場としての大量処理上のイメージがあり、どちらかと言うと【ジェノサイド】に近い雰囲気として使われていることなどから、④で【違う】という論旨であれば、マサカー(masscare)も当時の日本軍の行為を表すと言うことにはならい筈である。又、日本の明治の頃の英和辞書には【大量】を示す意味は付加されていないぐらいで、当時の日本が欧米の記事などに見るマサカー(masscare)をどう訳していたかは、【言語学・文学】には疎いので、調べが足りず判らなかった。機会があれば探ってみたい。

 


【3.南京大】

①中国では【南京大】と呼ばれる。
②【】は日本語では家畜を殺すときにのみ、中国語では家畜を殺すこととは限らず、【無情に殺戮する】と言う意味。
③【虐殺の原義】は酷いやり方で殺すということであり、この言葉と【一脈通じる】ところがある。
④【虐殺】に対して使われる言葉は国によってそれが喚起するイメージが微妙に異なる。
⑤-1中国の都市は歴史的に城壁都市であり、戦乱のおりには敵国=敵城の住民の皆殺し、「屠城」がしばしば起こった。「屠城」と「」は一体であった。
⑤-2【大】が戦闘と戦闘終了後の殺戮を一体としてイメージされるということはあるだろう。
⑥日本には城壁都市はなかったが、戦国時代に織田信長や豊臣秀吉が国内統一戦や朝鮮侵略で行った
「撫で斬り」(皆殺し)が中国の「屠城」、「大」のイメージに近いだろう。


【分析】

①②は中国での【呼称】と【】の日本と中国の意味の違いの説明。
③は②の【】と【虐殺】の意味の一致を主張。
⑤【屠城】と【】の関係は、古代から近代にまで行われた中国での【屠城=敵城の住民の皆殺し】で行われた行為が【】であると主張。
⑥は、日本と中国の城の概念構造との違い。
⑦⑤の【屠城=敵城の住民の皆殺し】が、【大】に近い。つまり①の意味は【皆殺し】。

【3への反論】

⑦⑤から【大】を【占領エリア】での【皆殺し】であるならば、国際安全委員会が世話をしていたとする【中国人避難民】や日本軍・南京自治委員会&南京特務機関の調査がある以上はこういった【皆殺し】という【屠城】や【大】という【意味】は全く【該当】しない事は明らかである。【2.何を虐殺、大虐殺とするか】でこのサイトの【定義】では【大虐殺】は【事実】を示す状態を表す【用語】では無いので、【大又は屠城】という中国の古来からある【状況を示す】【用語】とは合致しない。
そして⑥の織田信長や豊臣秀吉、朝鮮出兵などとは何の脈絡も関係も無い。

 


【4.「南京大虐殺」は中国語の「南京大」を翻訳したものか】

①戦後岡村大将のコメント記事が『週報』(1945年12月7日)にある。その翻訳が南京集中営(南京日本人収容所)掲載されている。【南京大事件】についてインタビューがある。
②南京軍事法廷ではこの事件のことを「南京」と呼んだ。
③1980年代【南京大】と改称。
④石川達三の(読売新聞「東京裁判中におけるインタビューのタイトル」)は「裁かれる殘虐『南京事件』」。
⑤東京裁判中は次々と日本軍【戦争犯罪】で、南京暴虐事件は世間にインパクトを与えなかった。
⑥中島師団に従軍していた不動健治氏の写真集タイトル【南京大虐殺】と使った。(『画報近代百年史 第十五集1937〜1940』 1952年11月)
⑦朝日新聞の従軍記者今井正剛氏は【南京大虐殺事件】(『特集文藝春秋』 1956年12月号)使った。
⑧歴史家では洞富雄氏『近代史の謎』が「南京残虐事件」を使った。
⑨「南京大」と「南京大虐殺」という言葉はこの事件総体を日本軍の一連の戦争犯罪から取り出して問題とするような意識があって始めて命名されるような性質のものであった。
⑩日中両国ともに南京軍事法廷、東京裁判のあとにもしばらくの間、一定した呼称が成立していない。
⑪時間が経過して始めてそのような問題意識が生まれたのである。
⑫事件の認識はすでに岡村大将も持っていた。
⑬事件の性質と言葉の意味自体からして日中のそれぞれで「南京大虐殺」、「南京大」と呼ばれるようになったのは必然であった。


【分析】

①この記事は、【岡村寧次】がそういう【用語】と【認識】を示したものでは無く、インタビューを試みた【中国人】が使用したもの
②③④⑤⑥⑦⑧は、戦後に出て来た【戦後】の【呼称】
⑨【呼称】問題は、【東京裁判以降】に日本軍の【戦争犯罪】から意図して抜粋して【問題とするような意識】があって始めて【命名】されるような性質。
日本は戦後の経済復興と共産主義との戦いで忙しく、中国はまたも蒋介石と中国共産党の内紛戦闘でそれどころではなくなる。
⑪時間が経過して、日中正常化交渉の際に出現した。
⑫は関係の無い話。
⑬【戦後】、日中でそれぞれの【名称】で、アカデミックやメディアが【呼称】した。

【4への反論】

岡村寧次大将が受けたインタビューの時期では、【旧日本軍人】の【帰還兵】問題の手前、蒋介石に恩義に感じている点で、日本人独特の【空気】を読む言葉とも考えられる。又岡村の回想史料での【南京戦後】の認識について、回想録に2種類残しているが、【伝聞】又は【報告(未発見)】で実際には【原田熊吉】(*6)という【陥落直後】に入城した【南京特務機関】の【報告】の【可能性】があるが、特務機関の性質上、【他の部隊】に対する調査権限もなく、既に南京を離れている部隊もあり、日本軍でも【面子】を重視する以上は、出入りした先の将校の【噂話】か、欧米人(国際安全委員会のメンバー:ラーベ、スマイスなど)、紅卍字会の支那人からの【情報】に限られていたものと考えられる。
②③④⑤⑥⑦⑧は【戦後】の【呼称】の羅列であって、【戦前】の【呼称】として、【南京攻略戦】に関して、【日本語】として【虐殺】【大虐殺】が使われていたことを【提示】していない。
⑨でこのサイトのこの記事を書いた人物が、【戦後】に造語されたものだと語っている。性質を知る為には調査等が必要なので、⑬の意味は当然なのだが、【必然】では無く、【2.何を虐殺、大虐殺とするか】の【目的】でそういう【呼称】を広めたと言う事である。
何等【南京攻略戦】と【占領当時】を表しているわけではない。

 

【まとめの反論】


タイトルの【呼称は何が良いか】であるが、【目的】はこのサイトのいう【否定派】の主張への反駁であるはずだが、①の【戦前】に於ける【南京】での【日本軍の行為】について使われた【日本】での【虐殺】又は【大虐殺】を【提示】出来て無いので、【全く否定出来ていない】。
英語の【masscare】を提示したのは良かったが、立証するには【戦前】の日本でどう訳されていたかを【提示】すべきである。
③については、【3】-⑦と【4】-⑬から、戦前や⑩⑪の日中双方が落ち着かない状況ではなく、【戦後】特に【日中国交正常化交渉】が持ち上がった段階から、その様な【呼称】の【摺り合わせ】が行われていったと言うことに外ならない。
つまり、【【否定派の主張】②日本人に罪の意識を植え付けるために作られた言葉である。】は、正しいと言う事を【否定する】どころかこのサイトは【証明している】という【笑い話】である。
ここでも安定しているが、当方が前回記事の《【0.「南京論争」の前に=>2.何を虐殺、大虐殺とするか】への反論》で述べた様に、【南京大虐殺】という【呼称】を使って【日本国・日本軍・日本人への【誹謗中傷】するために是が非でもこの【名称】を使いたい】という

このサイトのグループの構成員の方々の【願望】の表明記事である。

 

【参考文献】


(*1)冨澤繁信「原典による南京事件の解明」(PDF版)【LINK】

1937年12月15日 114師団杭州宜輿及長輿に転進
1937年12月15日 第9師団第7連隊の第一(790人)・第二大隊(812人)の合計1602名で国際安全区の警備。
1937年12月16日〜20日 第6師団蕪湖方面に転進
1937年12月20日 第13師団第65連隊(両角部隊)浦口へ転進
1938年1月22日 残留警備の16師団北支へ転進
1938年1月22日 16師団第19旅団(第9連隊)句容警備から鎮江へ転進
1938年1月23日 16師団第19旅団(第20連隊)鎮江から大連へ転進
1937年12月24日 第9師団(第7連隊)蘇州方面に転進。残留した16師団38連隊の内の一部(千人位か)が第7連隊と交代し安全区内警備へ付く。
1937年12月28日 第十軍司令部広州へ転進
1938年2月14日 中支那方面軍解散

(*2)アジア歴史資料センター『ソヴェト紙の論調』 【Link】 【レファレンスコード】A03023885100
ソ連のタス通信が報道した内容をAPが報道拡散したもので、日本の総務省の北支関係の史料で、1937年の8月2日の段階で、【大虐殺】という【文言】を提示している。まだ、上海戦から始まった大陸各都市の空軍施設への攻撃も未だで、当然南京戦も未だの頃である。

 

(*3)アッティラwiki 【Link】

(*4)アイリス・チャン回想録サイト 【Link】
同中【南京の真実はこうしてイギリス・アメリカに伝わり、ハリウッド映画へと受け継がれた!】 【Link】

(*5)冨士信夫氏著 『「南京大虐殺」はこうして作られた─東京裁判の欺瞞』 展転社(1995年5月) P.22 2行目 【Amazon】

(*6)日本軍によるホワイトプロパガンダ映画である東宝製作の『南京』 【Youtube】

(*7)イェール大学の画像 【LINK】

(*8)原田熊吉 wiki 【Link】
当方の記事『1937年以降の支那人の恩人達。鈴木明氏の著作から』 【Link】
『週刊金曜日』(1260号/2019年12月6日)P.24 吉田裕(一橋大学名誉教授)への編集部員植松青児のインタビュー記事より 【Amazon】