南京事件FQA 【1.人口問題関係=>1.陥落時の南京の人口は20万ではなかった】への反論

2020年02月07日 19時00分00秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>1.陥落時の南京の人口は20万ではなかった】という南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論してみたい。
当方の記事で《1937年の南京南京攻略戦前後での【二〇万人しかいない人間を、三〇万人殺すことはできない】のは正しい》でほぼ論じたので読んでいただければ、ここに関する反論はご理解出来ると考える。
それでも、まぁ、教育的配慮で、もう一度反論を試みておく。


【(A)否定派の主張】
《陥落時の南京に市民は20万人しかいなかった。》
第1の論拠 当時の南京の人口
以上の資料を総合してみると、当時の南京の人口は、12〜13万から最高20万の間とみてまちがいない。
(田中正明『南京事件の総括』p161より。漢数字はアラビア数字に置換)


【当方からの補足】として、そもそも田中氏は【南京城内にいた住民は何人か】を前提とされている。
それは、国際安全委員会の【史料】や東京裁判での【南京暴虐事件】とされる事案が、【南京城陥落後】の【占領過程】と【占領期】に起こったとされているからである。(田中氏の書かれた当時の認識からすれば当然な事と考える。)

 


【1「南京」の範囲の定義】
①南京安全区…南京城内の一区画
②南京城内…城壁に囲まれた範囲
③南京市…2に城外に隣接する市街地および近隣の農村部(郷区)を加えた地域
④南京特別市(南京行政区)……3を含む江寧県など六県から成る広大な行政区


【分析】
①②③④は、南京で定義。
①は欧米人が中立(非武装)地帯としたエリア。
③南京城には、城外にそれぞれの門外に門前街がある。および【郷区】には要塞・防塁などの防衛拠点がある。
12月8日から始まった、堅壁清野作戦で、南京城壁の周囲の構造物は焼却されている。

④はスマイス報告(統計学を用いた推測の為に使われたエリア)によるもの。

 


【情報1】
①南京市の人口は、1937年3月末の時点では101万9667人(首都警察庁調べ、笠原十九司『南京事件』p219)。
②城内とその周辺が約85万、郷区は約15万である。
③その減少数。


【分析】
②の出典に明記が無い。『南京市政府行政統計報告』民国二十四年度(同二十六年四月刊)(『南京大虐殺の証明』 洞富雄著)によるものか。【オイラの!】 2chネラーなりに一生懸命調べた南京事件 【完全否定論】--サイトより引用すると

  1. 引用《 
    『南京市政府行政統計報告』民国二十四年度(同二十六年四月刊)によれば、日中戦争勃発直前の民国二十五年(1936年)6月の調査の南京市の人口は97万3158人であるが、その大半は市街居住者であって、郷区(上新河区・孝陵区・陵園区・燕子磯区)の人口は合わせて14万8577人にすぎない。

【情報1への反論】
南京市の【郷区】の人口15余万は、蘆溝橋事件すら始まっていない1937年の3月末の統計に過ぎないのなら、その後の【攻略戦直前の統計資料】がないのも事実。【郷区】にどれぐらいの【人口】が【残留】出来ていたのかは分からない。
スマイスは調査をしたという城内の数値として陥落間もなくの翌年3月現在の農家人口13万を挙げているが、郷区の人口とほぼ合致していてほぼ無疵と言う事になる。

 


【情報2】
①8月15日、南京に対して日本軍機による数か月に渡る渡洋爆撃が実行。
②南京市街は大きな被害により市民の脱出が開始される。


【分析】
【情報1】の為の減少要素。

【情報2への反論】
反論ではないが、①②によって、100万人都市からの人口流出が始まったという状況話。

 


【情報3】
①スマイス報告では、1年前の人口はちょうど100万余。8月・9月にかけて急減し、11月初旬にまた50万近くに戻った。
(『南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編』p251より)(ルイス・S・C・スマイス『南京地区における戦争被害』(1938年)より)
②スマイス報告の第1表に付された記述である(スマイスは報告で陥落当時の人口を20万〜25万としているが、郷区の人口を含めているかは明らかではない)。


【分析】
①スマイス報告は南京陥落後での1938年の次の時期の実施
 (1)農業調査の実地:3月8日〜23日迄(16日間)
 (2)都市調査
   (a)家族調査:3月9日〜4月2日(25日間)
   (b)補足調査:4月19日〜23日(5日)
   (c)建物調査:3月15日〜6月15日(123日間ぐらい)

【8月・9月にかけて急減し、11月初旬にまた50万近くに戻った。】という【調査】が成されたことは【この報告書】には書かれていない。【情報1】の④の情報は、バックの1931年の水害1932年の第一次上海事変後の「中国における土地利用」統計(L.Back, Land Utilization in China, Statistics.)からの推測されたものとされている。(『南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編』)
②スマイス調査報告は、江寧県を1931年の水害の被害調査のバックの人口数から推測している。表25で、江寧県の人口は433,300名としている。郷区の人口からの換算として1000人につき27名の被害と算出している。飽く迄も1931年の人口調査からの換算。

【情報3への反論】
11月初旬に50万という【数値】は、スマイス報告が翌年の3月以降からの調査であって、何かの【史料】の【出典】による【情報】ではない。日本軍が11月に南京に向けて進軍を開始したことは、国民政府に伝わっている筈で、後述の【情報8】の④にあるように、流動が激しい時期に正確な人口を調査したという【史料】は発見公開されていない。城門での厳格な入出管理資料があれば別だが、その様な【資料】の話は聞いたことがない。
スマイス報告はいろいろ問題点があるが、この江寧県などの数値は、6年も前の1931年の水害時の調査の人口を使って換算しているので翌年の第一次上海事変囲剿戦(*1)等々の【戦乱】を考慮に入れてない数値の使用は非常に問題である。

 


【情報4】
①日本軍が南京に侵攻しつつあった11月の中旬、国民政府は南京から重慶への遷都を決定。
②国民政府は遷都に600台の自動車と220隻の船舶を動員。
③一般市民の輸送力は低下し、船舶が少なくなり乗船切符は高騰。
④12月初旬には南京防衛軍司令官の唐生智は下関から浦口までの連絡船業務を停止し、城門を閉鎖した。
⑤そのため11月下旬から脱出できた市民、農民は多くなかった。
⑥城外の住民は農民主体であり、城内の住民と比べると遠くに疎開する資力がある者は少なかった。


【分析】
①②は、経緯。
③それから起こる可能性、記憶の酩酊した【角良晴】が、戦後の偕行社の編集長とのやり取りで示していた。
渡江停止と城門が閉められるまで、2週間程ある。その間は輸送可能
⑤⑥その後の状況の推測。安全区内の人間が【農業従事者とその家族】の割合は明確に示されていない。

【情報4への反論】
当時南京に残留したNYTのダーディン記者が12月7日から10マイル(約16キロ)の範囲の建物や障害物を燃やし続けていたと12月8日の記事にあるが、それ以前に郷区の人々がどのような行動を取っていたのか不明である。15万近い人口がどこに残留していたか不明のママである。
日本軍の【戦闘詳報】などには、これらの【民間人】を戦闘員として殺傷し【戦果】としているものは無い。中国軍兵と誤認の上攻撃されて殺傷されたり、中国軍との戦闘(砲撃・弾丸の流弾)に巻きこまれたケースもあったかも知れないが、そもそも【非戦闘員(民間人)】の【保護】と【避難】は、日本軍側の【責任】ではない。

 


【情報5】
①11月23日、南京市政府(馬超俊市長)が国民政府軍事委員会後方勤務部に送付した【書簡】「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万人と予想される難民のための食糧送付が必要である」
(笠原十九司『南京事件』p220より。漢数字はアラビア数字に置換)(中国抗日戦争史学会編『南京大』)
②11月下旬までには脱出可能な人間は脱出済み。
③日本軍に追われ江南地域からの避難民が移動して来た。
④南京戦が開始された時点で市内にいた民間人は40万〜50万であったと推定している。


【分析】
①推測値に変わりはないが、50余万という【数値】も【調査】による【数値】でもない。
②【情報4】の④から、17日程の期間がある。
③この出典は【不明】。何を元にいつ、どれだけの避難民が移動してきたか不明。
④【情報4】⑤⑥が【根拠史料無し】、【情報5】③④も【根拠史料無し】という状態での【推定】。

【情報5への反論】
の情報に関する【確度】がほぼ無いので、この50万という【数値】すらも【想像】の類になる。
信頼できる当時の状況を示す【史料】が必要となる。
②は、12月の7日迄脱出可能な期間があるので、想像としては【脱出】が試みられていたと考えられる。
③は【史料】がないので、【根拠】が全く無い。全くいい加減な印象操作目的の【想像】である。

このサイトの人物達が言う通りに大人数が南京【城外】に留まれたのであれば、
江南の地でも同様に残留出来たはずだからである。

こういう事が【矛盾】と気がつかない【知的水準】。

 


【情報6】
有名な「20万」という数字の根拠は何か。
「20万」の見える【文献】
①ラーベの日記の文書などである。
〔11月25日〕まだ20万人をこす非戦闘員がいると言うけれども。
〔11月28日〕警察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ20万人住んでいるとくりかえした。
(ジョン・ラーベ『南京の真実』文庫版P.70、P.77)
②国際委員会


【分析】
①②という【第一次史料】からの史料価値の高い【情報】。

【情報6への反論】
反論と言う事でもないが、当時の、城外の人口を測る資料もなく、日本軍の和記洋行前の宝塔橋街(名称変更:平和街)や上新河附近に避難民らしきの認識ししているようであり、そもそも問題は、ラーベ自身も日本軍の蛮行の中心は【城内】と考えているからであって、城外ではないということである。田中氏の認識もそれと同じく、このサイトの人物達の【認識】や【定義】と違うということである。

 


【情報7】
①各種資料には南京戦が近づくにつれて人口が減少する様子が記されている。
②推定人口は最終的に20万という数字に落ち着く。
③それを裏づける人口調査が行なわれた記録は存在しない。
④そもそも国民政府が大急ぎで脱出を図っていた慌しい時期に正確な人口を数える余裕などあったはずがない。
⑤20万というのは陥落の何週間も前から予想されていた大雑把な数字。
⑥南京の外国人たちは陥落時までに市民のほとんどが安全区に避難したと考えていた。
⑦彼らの資料にある「20万」は安全区の推定人口である。
⑧南京の人口と見なしていたのである。
⑨実際は安全区の外にも市民は残っており、陥落後に安全区の人口が増加したことで外国人は認識を修正した。


【分析】
①②は【情報6】の補足。
④⑤⑥⑦⑧は、【情報1〜7】による【20万人】は【推測】。
⑨2月以降25日以降に城内への出入が無制限になるので、それ以降は人口が増加したことを外国人は認識して修正した。【1.人口問題関係=>5.占領後に人口が20万から25万に増えたというのは嘘】に記載。

【情報7への反論】
当時の人口が、20万という【数値】が正しいものという【保証】はない。だたそれ以外の当時【史料】としての【数値】はなく、いくら【50万】という【数値】を挙げた所で、【実態】は判らないし、判る城内での【数値】で検討することが【優先】されるべきである。
なお、南京の人口の数値は、年々上昇しているのは事実であり、蒋介石・共産党連合軍との戦闘中という事を考慮しても増えていったことは日本軍と当時の行政担当者としての中国人の方々の秩序維持は良好であったと考えられる。

 


【以上情報1〜7の上での(A)の反論】
①外部と隔絶された段階、1月までに登記された城内の人口は16万程度である。
②これは子供や一部の老人が含まれていない。
実数は20数万だったと考えられる(外国人は25万と考えていた)。
④陥落前には確実に【それ以上】はいたわけである。
⑤陥落時に城外や郷区に留まっていた難民も存在したし、移動中の難民もいた。
⑥陥落時点の南京市の人口を正確に測定することは今となっては不可能だ。
20万ということはありえないのである。


【分析】
①15万というのは、16師団による【良民証】発行数。
②③後の南京自治委員会が引き継いだ調査で10万余りとなるので、総数25万と成る。
陥落前には【確実】に【それ以上=16万以上】にいたことは確かである。
⑤⑥⑦南京城内は、さしたる犠牲者は居ないことになる。

【《(A)への反論》の反論】
【情報1】から【情報7】で何が提示されてきたかというと、このサイトに後述される【城外の人口の資料】に出てくる城外に纏まった数値(幕府山でも多くて2万、宝塔橋街の保国寺にも7、8千、法雲寺(放生寺)にも人数不明、上新河鎭附近にも人数不明)居たと言うことである。そしてその不明な人々のうち、最大30万は殺害された事になるという【主張】となる。
語るに落ちるというのはこう言うことで、本来、国際安全委員会でも東京裁判での検察側の主張でも考慮されるべき【城内】には、ほぼ無傷と言うことが、【情報6】で少し書いた通りこのサイトの後述の【5.占領後に人口が20万から25万に増えたというのは嘘】での南京特務機関の南京班第1回報告(1月21日提出)の中で城内への出入を制限していた旨から(『華中宣撫工作資料』より)、人口移動はないという判断なので、日本軍の城内での【蛮行】は【虚偽】か【極少数】という極めて限定的なものになり、結果【城外】の【郷区】での【殺害】が主となることになる。日本軍の【戦闘詳報】や【陣中日誌】などの【史料】の中で、その様な【大量】の【民間人】を【発見】又は、【殺傷】下という【記録】は、偕行社の『南京戦史』などにも見当たらない。
又、東京裁判で提出された【二次史料】の【埋葬記録】というものがあるが、当方のこちらの記事【何度も言うのが教育なのですが、東京裁判の埋葬団体の崇善堂の証拠は破綻している。】でも書いたが、大規模埋葬を行った【崇善堂】のこの10日程重複した期間もある全体で【短期間(25日)】で埋葬事業を行うことは資材・資金・人員・人員輸送の面で不可能。しかも【シークレット(当時の欧米人・日本軍・日本軍属の史料に存在しない)】ではあり得ない。仮に紅卍字会の下請けならば紅卍字会の項目に書かれるべきだが、書かれてないのでそういう事もあり得ない。
この記事では、自ずと如何にも【城外】に【大量】の【民間人】が存在して、その大部分(最大30万/このサイトの【前提】が数量を過大に見積もる)が、日本軍に【殺害】されたという主張となる。陸の【遺体】は動かないので、そのような判断・分析・理解は絶対に無理である。城内も崇善堂(当方は活動自体を否定している)【城内】7,295体紅卍字会【城内】5,448体合計12,743体である。そこでこういった【土下座を強要したい人々】は、【崇善堂】の埋葬記録の【城外】の記録に縋らざるを得無い状況なので理性的に判断が出来ていない。他に埋葬情報として【価値の低い】もので南京市衛生局 9,317体、紅十字会南京分会の22,371体(『南京事件資料集 中国関係資料編』から抜粋)(*2)があり、紅卍字会・崇善堂もそうなのだが【一次史料】が公開されているわけではありません。南京市衛生局は、南京自治委員会所属であるので、阿羅健一氏が発見した三冊の『中華民国南京市政概況』『南京政府 行政統計報告』『南京』(南京日本商工会議所編)(*3)などに記録が残ってないのはおかしく、これの詳細も不明でどこで何時何処に埋葬したかも書かれていないことからも【信憑性】は落ちるものと言える。
そもそも南京攻略戦は南側と東側からの攻撃であり、そのエリアにも中国軍の防衛戦・防塁・陣地が構築されていて種々に戦闘が行われている。【大量】の【非戦闘員】が【目撃】されたという【史料】は目にしたことがない。第六師団(戦後南京軍事法廷で処刑された谷寿御中将の部隊)が、江東門附近での敗残兵との交戦の結果を少なすぎるとして再計算させた所、最初の目算よりも減ってしまったという事実があり、部隊の戦闘詳報などの目算は【多く見積もられる】【カウントされたものではない】と言うことである。同じく南からの雨花門への攻略に取り掛かった第114師団や南東から光華門(洪武門)・通済門・武定門を攻略した第九師団の【道程】でも【非戦闘員】を含む【大量】の【戦果】として【殺害】を挙げた報告など存在しない。岡野君江と言う人物が「第九師団と南京事件」で第九師団の捕虜殺害と違法行為を糾弾する論文を書いているが(*4)、ここの中の記述に於も【大量】の【殺傷行為】が行われたという【史料】の提示はない。因みに単に【捕虜】や【非戦闘員】への散発的な【殺傷行為】を示したもので、【原因】が述べられておらず【違法】であるという【立証】は成されてないのは言う間でもない。【(A)の反論】の③で書いているように城内に関しては実数として20万の推測と言う事は否定出来ていない。

結果として、この南京事件FQAの【陥落時の南京の人口は20万ではなかった】記事では、
【否定派に反論】するどころか【自らの墓穴を掘って】【主張が破綻】してしまったことになる。

 

 

【参照サイト・論文など】


(*1)第一次国共内戦 1927年から1937年 wiki 【Link】

(*2)【オイラの!】2chネラーなりに一生懸命調べた南京事件 【完全否定論】氏のサイト=>【第26項】『埋葬遺体数』と『南京の不幸な市民』【前編】 【Link】

(*3)松尾一郎氏のサイト【南京大虐殺はウソだ】=>南京事件(南京大虐殺)がなかった18の根拠=>【7、崇善堂11万のウソ】 【Link】

(*4)岡野君江著【論文】『第九師団と南京事件』 【Link】