南京事件FQA 【0.「南京論争」の前に=>3.南京事件/南京大虐殺の呼称は何がいいか】への反論

2020年02月04日 22時02分56秒 | 1937年 南京攻略...

0.「南京論争」の前に=>【3.南京事件/南京大虐殺の呼称は何がいいか】

このサイトのこの記事の【主張】について反論してみたい。
この記事は、【南京事件FQA 【0.「南京論争」の前に=2.何を虐殺、大虐殺とするか】への反論】で述べた内容と重複する。
一応教育的に、再度、述べておく。
この記事は、【否定派】への【反論】として書かれているようである。一応【呼称】について反論する。


【否定派の主張】
①南京大虐殺という呼称に対して「虐殺」とか「大虐殺」という言葉は戦前にはなかった。
日本人に罪の意識を植え付けるために作られた言葉である。
③「大虐殺」は中国の「大」を翻訳したものである。


この【記事】の【目的】は①②③という【否定派の主張】を【否定】するつもりで、書かれているようである。

 


【呼称問題について】

【1.アトロシティ】
①1937年の南京の事件を南京大虐殺と呼ぶことに多少の問題はあるだろう。
②虐殺だけではなく、略奪、放火、強姦、暴行伴った。
③中国人に対する生命、財産、アイデンティティのすべてを踏みにじる犯罪行為だったからである
④これを表す適当な日本語はない。
⑤当時、外交官の石射猪太郎、歴史家の秦郁彦氏「南京アトロシティーズ(atrocoties)」、歴史家の洞富雄氏は【南京大残虐事件】。あまり広がらなかった。


【分析】

①は【アトロシティが】という【用語】について。
②アトロシティが【都市】での【殺害】を含んだ【蛮行】という理由。
③【都市】における【占領軍】による【行為】は【犯罪行為】だ。
④正確な【訳語】は、存在しない。
⑤【呼称】の一つとして試されたが、結果として日本では拡散・定着しなかった。

【1への反論】

当時の軍隊行動に於いて、第十軍及び第16師団、第6師団、第9師団、第5師団や第13師団の一部など、支那本土への上陸後急進に次ぐ急進と各地での散発的な戦闘を経て南京城にたどり着いて、そのまま戦闘状態に入っている。陥落後に占領と治安維持の為の掃討戦や式典(慰霊祭を含む)などで息つく間もなく疲労困憊で、全部隊ではなくその他の部隊はそれぞれの任務地へ赴くため移動している(*1)。慌ただしく忙しい日本軍に【アトロシティー】という【殺害・強姦・略奪・放火】また【欧米の報道】であるような【酩酊出来る程酒を飲んで】不埒な行動をなど行っている【暇】はない。
別に、南京戦やその前の上海事変(8月14日)が起こる前の8月2日の時点で、ソ連のタス通信(民間ではなく国家通信社)が【世界的大虐殺行動開始】と日・独・伊を名指しして【報道】している(*2)。他にも古代の伝聞物語の【アッチラ】(*3)という【キーワード】などが当時のベイツとティンパーリー(*4)との1938年3月21日のやり取りの中や東京裁判でのT.H.モロー検察官の【冒頭陳述】の中の【言葉】にも出てくる(*5)。この様な時期状況とは異なる【用語】が展開されるのは【戦時宣伝(虚偽)】における【慣用句】とか【様式美】と同列のものと考えれる。
アトロシティ(atrocity)自体の語源は、中世フランスのアポシィチ(残虐)とラテン語のアートゥロックス(ひどい、残酷な)、アタルゥ(煤黒い状態になった?)。From Middle French atrocité, from Latin atrox (“terrible, cruel”), from āter (“matte black”)、ラテン語のアタルゥ(āter)は火を表し、関連するイートリーム(atrium)は、炉の煙が屋根の穴を通っていくことからで、ラテン語の語源としては火災による廃墟を連想させるものであるようだが、実際の南京が火災によって廃墟になった事はなく、日本軍によるホワイトプロパガンダ映画である東宝製作の『南京』(*6)やイェール大学の画像(*6)からも【廃墟】になって居る訳ではないし、その後復興に伴い、年々人口が徐々に増えていったことなどからも【南京城内】が【廃墟になった】という印象とは全く異なるので、当時の状況と合致しない【用語】であったため当然ながら【定着】しなかったものと考えられる。単にこのカタカナの英語がイメージが日本人が持つ情緒と合致しなかった面も在る。
そもそも【2.何を虐殺、大虐殺とするか】で、【南京事件】は【南京大虐殺】を【含まねばならない】ので、【意図的】に【印象づけたい】という【目的】を持った【用語】である以上は、こういう記述は矛盾又は詭弁になる。
③の【犯罪行為】について、以前の当方の【国際法】関係の記事を読めば理解されると考えるが、しかも【アイデンティ】を【踏みにじる行為】が【犯罪】ではないし、そもそも当時の中国人にどのような【アイデンティ】(漢人、満洲人、ウイグル人、チベット人?)があったかも不明である。本当に【悪意】を持って【日本軍を犯罪者扱い】したいという【願望】が滲み出ている文章である。

 


【2.虐殺を表す英語】

①英語では南京大虐殺についてmassacreがよく使われる。
②slaughterは大虐殺を構成する個々の殺害事件について使われる
③暴行、強姦の義も入るrapeも使われることがある。
④genocide、holocaustは人種的絶滅を図る虐殺の意味が強く、南京大虐殺においては適当ではない。
⑤アイリス・チャン(Iris Chang)はあえて【forgotten holocaust(忘れられたホロコースト)】と呼んで人々の関心を喚起
⑥ ①②③④⑤の用語も単数・複数の別のない集合名詞である。つまり、被害者数は常にmanyであることを示している。大小の区別までを立てる習慣はない。


【分析】

①②③④は、英語圏での【語彙】の紹介。
④は、ジェノサイドやホロコーストの民族浄化を目的とする殺害・強姦・交配であるので適当ではない。
⑤は、④の例外的に使われた【インパクト】を狙った【宣伝文句】としての用法。
①②には可算名詞としての用法もある。
⑥【many】(大量)が内包されている【用語】である。

【2への反論】

④ジェノサイドとホロコーストと日本軍の【アトロシティ】を別にしていることは評価出来る。
⑤に関して【世界抗日戦争史実維護連合会】の協力・指示の下のロビー活動の一環として書かれたものであることを明記しないことと、実際の所④で【適当ではない】とこのサイトの記述者自身が書いているのだから、【インパクト】を狙った【事実とは異なった】【虚偽の宣伝文句】であるということを明記しないのは【安定の悪意】を感じる。【関心を喚起】等と言うのは苦し紛れの表現である。
⑥【slaughter】の他にも【bucher、slay、murder】等があるが、基本的には【数値】ではなく【状態】を表すものと考えると、massacre以外は【大量】を内包しているとするのは疑問である。マサカー(masscare)は、以前当方の記事で書いているので参考していただければ判るが、マサカーも古代フランス語や古代のラテン語から場としての大量処理上のイメージがあり、どちらかと言うと【ジェノサイド】に近い雰囲気として使われていることなどから、④で【違う】という論旨であれば、マサカー(masscare)も当時の日本軍の行為を表すと言うことにはならい筈である。又、日本の明治の頃の英和辞書には【大量】を示す意味は付加されていないぐらいで、当時の日本が欧米の記事などに見るマサカー(masscare)をどう訳していたかは、【言語学・文学】には疎いので、調べが足りず判らなかった。機会があれば探ってみたい。

 


【3.南京大】

①中国では【南京大】と呼ばれる。
②【】は日本語では家畜を殺すときにのみ、中国語では家畜を殺すこととは限らず、【無情に殺戮する】と言う意味。
③【虐殺の原義】は酷いやり方で殺すということであり、この言葉と【一脈通じる】ところがある。
④【虐殺】に対して使われる言葉は国によってそれが喚起するイメージが微妙に異なる。
⑤-1中国の都市は歴史的に城壁都市であり、戦乱のおりには敵国=敵城の住民の皆殺し、「屠城」がしばしば起こった。「屠城」と「」は一体であった。
⑤-2【大】が戦闘と戦闘終了後の殺戮を一体としてイメージされるということはあるだろう。
⑥日本には城壁都市はなかったが、戦国時代に織田信長や豊臣秀吉が国内統一戦や朝鮮侵略で行った
「撫で斬り」(皆殺し)が中国の「屠城」、「大」のイメージに近いだろう。


【分析】

①②は中国での【呼称】と【】の日本と中国の意味の違いの説明。
③は②の【】と【虐殺】の意味の一致を主張。
⑤【屠城】と【】の関係は、古代から近代にまで行われた中国での【屠城=敵城の住民の皆殺し】で行われた行為が【】であると主張。
⑥は、日本と中国の城の概念構造との違い。
⑦⑤の【屠城=敵城の住民の皆殺し】が、【大】に近い。つまり①の意味は【皆殺し】。

【3への反論】

⑦⑤から【大】を【占領エリア】での【皆殺し】であるならば、国際安全委員会が世話をしていたとする【中国人避難民】や日本軍・南京自治委員会&南京特務機関の調査がある以上はこういった【皆殺し】という【屠城】や【大】という【意味】は全く【該当】しない事は明らかである。【2.何を虐殺、大虐殺とするか】でこのサイトの【定義】では【大虐殺】は【事実】を示す状態を表す【用語】では無いので、【大又は屠城】という中国の古来からある【状況を示す】【用語】とは合致しない。
そして⑥の織田信長や豊臣秀吉、朝鮮出兵などとは何の脈絡も関係も無い。

 


【4.「南京大虐殺」は中国語の「南京大」を翻訳したものか】

①戦後岡村大将のコメント記事が『週報』(1945年12月7日)にある。その翻訳が南京集中営(南京日本人収容所)掲載されている。【南京大事件】についてインタビューがある。
②南京軍事法廷ではこの事件のことを「南京」と呼んだ。
③1980年代【南京大】と改称。
④石川達三の(読売新聞「東京裁判中におけるインタビューのタイトル」)は「裁かれる殘虐『南京事件』」。
⑤東京裁判中は次々と日本軍【戦争犯罪】で、南京暴虐事件は世間にインパクトを与えなかった。
⑥中島師団に従軍していた不動健治氏の写真集タイトル【南京大虐殺】と使った。(『画報近代百年史 第十五集1937〜1940』 1952年11月)
⑦朝日新聞の従軍記者今井正剛氏は【南京大虐殺事件】(『特集文藝春秋』 1956年12月号)使った。
⑧歴史家では洞富雄氏『近代史の謎』が「南京残虐事件」を使った。
⑨「南京大」と「南京大虐殺」という言葉はこの事件総体を日本軍の一連の戦争犯罪から取り出して問題とするような意識があって始めて命名されるような性質のものであった。
⑩日中両国ともに南京軍事法廷、東京裁判のあとにもしばらくの間、一定した呼称が成立していない。
⑪時間が経過して始めてそのような問題意識が生まれたのである。
⑫事件の認識はすでに岡村大将も持っていた。
⑬事件の性質と言葉の意味自体からして日中のそれぞれで「南京大虐殺」、「南京大」と呼ばれるようになったのは必然であった。


【分析】

①この記事は、【岡村寧次】がそういう【用語】と【認識】を示したものでは無く、インタビューを試みた【中国人】が使用したもの
②③④⑤⑥⑦⑧は、戦後に出て来た【戦後】の【呼称】
⑨【呼称】問題は、【東京裁判以降】に日本軍の【戦争犯罪】から意図して抜粋して【問題とするような意識】があって始めて【命名】されるような性質。
日本は戦後の経済復興と共産主義との戦いで忙しく、中国はまたも蒋介石と中国共産党の内紛戦闘でそれどころではなくなる。
⑪時間が経過して、日中正常化交渉の際に出現した。
⑫は関係の無い話。
⑬【戦後】、日中でそれぞれの【名称】で、アカデミックやメディアが【呼称】した。

【4への反論】

岡村寧次大将が受けたインタビューの時期では、【旧日本軍人】の【帰還兵】問題の手前、蒋介石に恩義に感じている点で、日本人独特の【空気】を読む言葉とも考えられる。又岡村の回想史料での【南京戦後】の認識について、回想録に2種類残しているが、【伝聞】又は【報告(未発見)】で実際には【原田熊吉】(*6)という【陥落直後】に入城した【南京特務機関】の【報告】の【可能性】があるが、特務機関の性質上、【他の部隊】に対する調査権限もなく、既に南京を離れている部隊もあり、日本軍でも【面子】を重視する以上は、出入りした先の将校の【噂話】か、欧米人(国際安全委員会のメンバー:ラーベ、スマイスなど)、紅卍字会の支那人からの【情報】に限られていたものと考えられる。
②③④⑤⑥⑦⑧は【戦後】の【呼称】の羅列であって、【戦前】の【呼称】として、【南京攻略戦】に関して、【日本語】として【虐殺】【大虐殺】が使われていたことを【提示】していない。
⑨でこのサイトのこの記事を書いた人物が、【戦後】に造語されたものだと語っている。性質を知る為には調査等が必要なので、⑬の意味は当然なのだが、【必然】では無く、【2.何を虐殺、大虐殺とするか】の【目的】でそういう【呼称】を広めたと言う事である。
何等【南京攻略戦】と【占領当時】を表しているわけではない。

 

【まとめの反論】


タイトルの【呼称は何が良いか】であるが、【目的】はこのサイトのいう【否定派】の主張への反駁であるはずだが、①の【戦前】に於ける【南京】での【日本軍の行為】について使われた【日本】での【虐殺】又は【大虐殺】を【提示】出来て無いので、【全く否定出来ていない】。
英語の【masscare】を提示したのは良かったが、立証するには【戦前】の日本でどう訳されていたかを【提示】すべきである。
③については、【3】-⑦と【4】-⑬から、戦前や⑩⑪の日中双方が落ち着かない状況ではなく、【戦後】特に【日中国交正常化交渉】が持ち上がった段階から、その様な【呼称】の【摺り合わせ】が行われていったと言うことに外ならない。
つまり、【【否定派の主張】②日本人に罪の意識を植え付けるために作られた言葉である。】は、正しいと言う事を【否定する】どころかこのサイトは【証明している】という【笑い話】である。
ここでも安定しているが、当方が前回記事の《【0.「南京論争」の前に=>2.何を虐殺、大虐殺とするか】への反論》で述べた様に、【南京大虐殺】という【呼称】を使って【日本国・日本軍・日本人への【誹謗中傷】するために是が非でもこの【名称】を使いたい】という

このサイトのグループの構成員の方々の【願望】の表明記事である。

 

【参考文献】


(*1)冨澤繁信「原典による南京事件の解明」(PDF版)【LINK】

1937年12月15日 114師団杭州宜輿及長輿に転進
1937年12月15日 第9師団第7連隊の第一(790人)・第二大隊(812人)の合計1602名で国際安全区の警備。
1937年12月16日〜20日 第6師団蕪湖方面に転進
1937年12月20日 第13師団第65連隊(両角部隊)浦口へ転進
1938年1月22日 残留警備の16師団北支へ転進
1938年1月22日 16師団第19旅団(第9連隊)句容警備から鎮江へ転進
1938年1月23日 16師団第19旅団(第20連隊)鎮江から大連へ転進
1937年12月24日 第9師団(第7連隊)蘇州方面に転進。残留した16師団38連隊の内の一部(千人位か)が第7連隊と交代し安全区内警備へ付く。
1937年12月28日 第十軍司令部広州へ転進
1938年2月14日 中支那方面軍解散

(*2)アジア歴史資料センター『ソヴェト紙の論調』 【Link】 【レファレンスコード】A03023885100
ソ連のタス通信が報道した内容をAPが報道拡散したもので、日本の総務省の北支関係の史料で、1937年の8月2日の段階で、【大虐殺】という【文言】を提示している。まだ、上海戦から始まった大陸各都市の空軍施設への攻撃も未だで、当然南京戦も未だの頃である。

 

(*3)アッティラwiki 【Link】

(*4)アイリス・チャン回想録サイト 【Link】
同中【南京の真実はこうしてイギリス・アメリカに伝わり、ハリウッド映画へと受け継がれた!】 【Link】

(*5)冨士信夫氏著 『「南京大虐殺」はこうして作られた─東京裁判の欺瞞』 展転社(1995年5月) P.22 2行目 【Amazon】

(*6)日本軍によるホワイトプロパガンダ映画である東宝製作の『南京』 【Youtube】

(*7)イェール大学の画像 【LINK】

(*8)原田熊吉 wiki 【Link】
当方の記事『1937年以降の支那人の恩人達。鈴木明氏の著作から』 【Link】
『週刊金曜日』(1260号/2019年12月6日)P.24 吉田裕(一橋大学名誉教授)への編集部員植松青児のインタビュー記事より 【Amazon】