【偕行社】の南京大虐殺への【現在の認識】

2020年01月27日 21時00分00秒 | 1937年 南京攻略...

現在の【偕行社】における【立場】を提示しておきます。これを読めば大体の方はご理解いただけると思います。
「偕行」1985年3月号 P.17〜P.18「証言による南京戦史」(最終回)<その総括的考察>)を受けて、後の史料精査などから判断されたものです。
その反論内容は12の各論で構成されており、偕行社の立場は【戦時プロパガンダ】という【認識】であることは2020年の現在でも変わりはないようです。
ですので、【偕行社の立場は、南京大虐殺を完全に否定しておられます。】

 


《《《《 転 載 》》》》

 

南京虐殺は戦時プロパガンダだった。
南京の論争は終わった
『偕行社』 平成24年(2012年)8月号/特集 いわゆる「南京事件」について
前文 偕行社 編集委員長 戸塚 新

偕行社は平成元年(1989年)に「南京戦史」全3巻を刊行した。
刊行当時の世評はおおむね好意的で、軍に批判的な向きからも陸軍元将校達が自ら不利と思われる資料をも渉猟して刊行したとし、さる識者は、この決定版で南京に何が起きたか(起きなかったか)という論争は終わるであろうと述べたことを記憶する。
以下省略

総論 すでに事実上決着がついた南京事件 賛助会員 茂木弘道
「南京虐殺」の本質は戦時プロパガンダであった。南京事件研究は、この十数年ほどの間に大きな前進を遂げた。中でもエポックとなったのは鈴木明氏が『新「南京大虐殺」のまぼろし』(飛鳥新社1999年)で、それまでマンチェスター・ガーディアンの記者で、日本軍の南京での暴虐を伝える『戦争とは何か』という本を英国のヴィクター・ゴランツ社から出版している中立的なジャーナリストとされていたティンパーリーの素性を、中国で発行されている『在華外国人名辞典』から明らかにしたことであろう。彼は国民党の国民党宣伝部の顧問であったことが書かれていたのである。

さらに北村稔立命館大学教授が『「南京事件」の探究』(文春新書 2002年)の中で国民党国際宣伝処長の曽虚白の自伝を紹介した。そこには右の『戦争とは何か』は国際宣伝処の宣伝物として作成したと書かれているばかりか、ティンパリーをその後国際宣伝処がアメリカに作った覆面パブリシティ会社の責任者に任じていたことが書かれている。

要するに「南京事件」なるものは国民党の宣伝戦に過ぎないことが明確になってきたのであるが、さらに東中野修道亜細亜大学教授は国民党史館で国民党国際宣伝処の極秘内部資料『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』を発見した。『南京事件…国民党極秘文書から読み解く』(草思社2006年)で詳しくその内容が紹介されている。

基本戦略は「国際友人を使い」中国人自らは全面にでない宣伝戦である。

ティンパーリーを利用した『戦争とは何か』はそのひとつであるが、外国人対策として1937年11月から38年10月まで漢口において300回の記者会見を行ったことも出てくる。この300回の記者会見においては南京で日本軍が市民の殺害を行ったとか捕虜の不法殺害を行ったという発表はただの一度もしていない。まさに自らは前面に出ない作戦である。これを謀略宣伝と呼ぶ。
シカゴディリーニューズやNYタイムスなどの外国紙に陥落直前の南京で日本軍が市民殺害を行ったことが報じられた。この記事は記者自身が12月15日にはすでに南京を離れているので情報源は別のとおろにあったはずと推測し、それが安全区委員会のベイツ南京大学教授であることを最初に指摘したのは松村俊夫氏であった。その後東中野教授がベイツは国民党政府の顧問であることイェール大学図書館所蔵の資料(アメリカの新聞切り抜き記事)から突き止めた。

途中省略

とどめとしての「Eyewitnesses to Massacre」『虐殺の目撃者』と題する英文書がM・Eシャープ社から出版されている。当時南京に在住していた10人のアメリカ人宣教師達の手紙を集めた本である。ところがこの手紙のうちスマイスなどが家族にあてた手紙を追っていくと、陥落数日後の間、南京は極めて平穏であったばかりではなく、その後も誰一人として虐殺を目撃していないことを明らかにしたのが松村俊夫氏である。南京事件があったという証明のつもりが逆に、そのようなことはないことを証明してくれた。これはまさに止めといってよいであろう。

各論1 NYタイムズ、シカゴ・ディリーニューズの南京陥落直後の記事はベイツ・メモが元になっていた 賛助会員/松村俊夫
各論2 国民党中央宣伝部国際宣伝処の極秘文書 賛助会員/松村俊夫
各論3 国民党覆面ニュースリリース会社とティンパーリー 賛助会員/茂木弘道
各論4 アメリカが戦後に創作した南京虐殺 賛助会員/溝口郁夫
各論5 スマイス調査(都市部)は根本的に信憑性なし 賛助会員/茂木弘道
各論6 中国は国際連盟になぜ一度も提訴しなかったのか 賛助会員/石部勝彦
各論7 「安全地帯の記録」の目撃殺害事件は一件のみ 賛助会員/溝口郁夫
各論8 「平和蘇る南京」で「虐殺」はあり得ない 賛助会員/岩田圭二
各論9 いわゆる数量問題について 賛助会員/小林太巖
各論10 南京の証拠として通用する写真は1枚もなかった 賛助会員/小林太巖・溝口郁夫
各論11 いわゆる「捕虜殺害」について 賛助会員/門山榮作


各論11よりの引用>
偕行社の『南京戦史』、「捕虜や敗残兵、便衣兵を撃滅もしくは処断」した実数1万6千と推定し、「戦時国際法に照らした不法殺害の実数を確定したものでは無い」「概して攻撃、掃蕩、捕虜暴動の鎮圧という戦闘行為の一環として処置されたもの」と書いている(366頁)
東中野修道教授の『再現南京戦』(草思社 2007年)は12月10日以降南京攻防戦を、日時、部隊、場所ごとの戦闘詳報や陣中日誌などを調べ、当時の戦場の状況を可能な限り再現している。
「虐殺が有った」とする意見の主体は、武器を置いた便衣兵を処刑したのは行きすぎだとするものである。…
軍事裁判無しの処刑だから違反という論は、未だ戦闘の継続としての掃討戦であることを無視した空論といわなければならない。…司令官が逃亡し、残された部隊は大集団で四散し無秩序に攻撃をかける、あるいは追い詰められれば命乞いをする、とらえられれば降伏するが、日本軍が手薄あるいは隙あらば集団で逆襲し、または逃走する。城内で武器を隠蔽し、建物内から狙い撃ちをする戦闘が繰り返された。都合が悪くなれば、軍服を脱ぎ武器を捨てて安全地帯に逃げこみ、第三者の欧米人を頼みにして法の保護を求めるのは国際法が「戦争捕虜」と想定している事態ではない。

各論12 “Eyewitnesses to Massacre”の意味するもの 賛助会員/松村俊夫

以上転載引用終わり

【kingen469】という方が、yahooの【ジオシティー】の【http://www.geocities.jp/kingen469/ronsou.html】で書かれていたものを当方で転載させて頂いたものである。yahooが勝手に締めたので、記載された場所が不明になって居りますので、当方が転載した
当方が分かり易いように年号の追加したことや各論の省略は抜いてあります。
もし、これを閲覧されたご本人又はお知り合いの方が居られましたら、ご連絡頂けましたら、勝手に転載したことをお詫びすると共に削除などを検討させて頂きます。


【偕行社】の南京大虐殺への【肯定とお詫び】の誤謬

2020年01月27日 21時00分00秒 | 1937年 南京攻略...

土下座強要派の方が、その【根拠】としているものの一つに《【偕行社】の【お詫び】》というのがあります。最近でもブログの記事やTwitterでのコメントでも度々見かけることがあります。
実はこれは根拠としては、もう終わっています。【根拠】としては既に成り立たなくなっています。
この既に終わっている話を知らない方、この事実を受け入れられない土下座強要派の皆様が、今だに【頼み】として居られるて拡散されて居られているようです。

先ずは【お詫びの内容】というのは、
偕行社(旧陸軍将校の親睦団体)の『偕行』編集部(執筆責任者 加登川幸太郎:南京戦不参加、当時陸軍大学三回生)による「証言による南京戦史」(最終回)<その総括的考察>でなされた、

引用《
畝本君の三千乃六千、板倉氏の一万三千、共に両氏それぞれの推定概数であって、当編集部としてこれに異論を立てる余地は何もない。これを併記して本稿の結論とする。
中国国民に深く詫びる
重ねて言う。一万六千人はもちろん、少なくとも三千人とは途方もなく大きな数である。

です。

この文面を根拠に、【偕行社】の旧日本軍人会・親睦団体でもある【立場】を借用して、軍人会ですら【南京大虐殺】又は【中国での非道行為を認めた】とされることが多いようである。ネットで検索を掛ければ【共産党】の方か支援者かのブログなどで、【ゆう 南京事件─日中戦争 小さな資料集】から引用したものを複数の方が拡散され続けていることが見かけられます。
そう言った方々は、その責任執筆者 加登川幸太郎氏や「偕行」編集担当常務理事 高橋登志郎氏の強い《政治的》意向が反映していたものを不承知又は承知の上で意図を持って拡散されている現状です。

この【総括によるお詫びが出る前出た後】の時系列を表示してみる。

1982年(昭和57年)6月 教科書【誤】報道 朝日新聞(華北侵略を華北進出へ検定で訂正させたという誤報)
1984年(昭和59年)4月 「証言による南京戦史」が刊行開始(偕行社機関誌『偕行』) 一年間連載。
1984年(昭和59年)11月 角良晴氏による「支那事変当初六ヵ月間の戦闘」と題した投稿があり、高橋登志郎編集長のやり取りが始まる。
1985年(昭和60年)2月 「証言による南京戦史」(最終回)<その総括的考察>(『偕行』3月号) 角証言を註釈無しに使用して加登川がお詫び表明
1985年(昭和60年)6月 【番外】 高橋登志郎の「南京戦史の総括的考察に反対された方へのお答え」への反対者に対する反論。
1986年(昭和61年)1月 角良晴氏の意向で高橋登志郎編集長との間だけで秘匿されていた【角証言】が板倉氏等に公開される。
1987年(昭和62年)12月 『偕行』1938年1月号 『角証言』発表
1988年(昭和62年)12月 『月曜評論』880号、881号で、角証言を使った藤原彰への反論
1989年(昭和63年)11月 『南京戦史』発行
2012年(平成24年)7月 『偕行』8月号/特集 いわゆる「南京事件」について/南京虐殺は戦時プロパガンダだった。発表

このような流れで、現代に至っている。
歴史というのはこういう時系列は必要です。
この時系列を見て頂くと、そもそも「証言による南京戦史」の刊行自体が、教科書問題という新聞のフェイクニュースから端を発していること、証言の収集と編纂の中で、連載末に角良晴氏(当時病気療養中)の投稿があり、編集員長高橋登志郎との面談及びやり取りが、他の編集員と公開されないまま加登川氏にのみ知らされて(少なくとも板倉氏は知らされていなかった)、翌年2月(3ヵ月後)の総括に引用されて【お詫び】の文言に繋がったことが判ります。

【総括・お詫び】について、板倉由明氏によるとその著作『本当はこうだった南京事件』のP.285の【第八章 角良晴証言の全貌】で反論と批判が為されています。
その内容からは、加登川幸太郎の【お詫び】に関する比重は、主に角良晴の証言・投稿内容を受けたものであったと考えられます。
それを引用すると

引用《
その際も書いたことだが、この証言と書簡は長らく南京戦史編集委員にも秘密にされており、筆者が実見したものは二年も後の昭和六十一年一月であった。その理由は角氏が【自分の証言だけが南京大虐殺の真相であり、特に軍司令部での出来事を知る者は松井・長・自分のみ、絶対に公開を禁ずる」と編集部に強く釘を刺していたことによる。角氏が亡くなられて一年でやっと我々の目に触れ、三年目にようやく発表されたことで一般に論評可能になったのである。その意味では、これが勝手な憶測によって大虐殺派に悪用されたことに対する責任の一端は、公開が遅れた『南京戦史』編集部、その一部を註釈なしで「総括」に引用(『偕行』昭和六十年三月号)した筆者・加登川幸太郎氏も負わなければならない。

本来、角良晴証言・投稿は、再度板倉由明氏の文献から引用すると要旨は、次の如くとなる。

引用《
ではそれほど重要視される角証言とは、どんな内容であろうか。角の書簡数通(昭和五十八年末より)及び編集長・高橋登志郎氏との問答(昭和五十九年十一月)から、簡単に要約してみよう。
①南京大虐殺は確かにあった。それは自分の証言するこれ一つだけで、他はすべてウソである。絶対に他言してはならない。
②日本軍入城時、城内には一般住民は一人も居らず、城内での虐殺は無かった。
③日本軍来襲以前に、住民二十五万人はすべて下関(揚子江の渡船場)に集まり、対岸浦口(角はホウトウと言う)に渡ろうとした。
④揚子江に面した西側城壁はキレイに取り除かれ、揚子江は気の枠だけ残っており、避難民の城内から下関への通行は自由であった。
⑤渡し賃は渡江希望者が殺到して最初の五ドルが十ドルになり、最後には三十ドルに上がって貧乏人には払えなくなった。
⑥結局ほぼ半数、十二、十三万の住民が渡江できずに下関で第六師団に捕まった。
⑦十二月十七日朝、第六師団から首都飯店の軍司令部情報課(二課)に電話があり、下関の支那人十二、十三万をどうするか、と聞いてきた。課長・長中佐は簡単に「ヤッチマエ」と命令した。
⑧角は事重大と判断して松井大将に報告、松井は長に解放を命じた。
⑨一時間後、再び同じ内容の電話があり、長は再び「ヤッチマエ」と命じた。角には再度松井に止めてもらう勇気がなかった。
⑩十七日、十八日、十九日と角は下関を視察したが、挹江門から揚子江に出て(中山碼頭)右折し、五十メートルから下流二キロにかけて幅三百メートル、ギッチリじゅうたんのように詰まった数万を下らない死体があった。
⑪二十日、松井司令官と角は自動車での下関に行き、右折して河岸通りの死体の上を静かに二キロ往復した。松井はホロホロと涙を流した。
⑫最初の電話は第六師団参謀長から、二度目は殺害命令を不審に思った下野参謀長からと思う。下野の回想録(未発見)には「下関の大虐殺は軍命令で師団長の意向ではなく、このことで谷寿夫師団長の死刑は間違いである。」と述べられているはずである。

この内、加登川氏の総括に使われたのは、以上のうち半分の⑦〜⑫だけであった。


引用《
『偕行』で加登川総括が紹介したのは以上のうち半分の⑦〜⑫だけであった。いうまでもなく、当時第六師団は下関にいない。第十軍所属の第六師団が上海派遣軍司令部に処置を聞くはずがなく、十七日朝上海派遣軍司令部はまだ湯水鎭にあって松井も長もここにいた。などこれだけでもこの証言が信用できないものであることは明瞭だが、加うるに①〜⑥を考慮すれば、今更「批判」の必要もない程、といってもよい。

このように、全体を考えれば、ガセネタの部類に入るものであったとされている。これは東宝撮影のニュース映画【南京】などを観ると一目瞭然であり、その他ネットなどで検索されると当時の挹江門の様子などが分かる。
前半を使わなかったということは、その証言の内容が問題と有ながら、意図するかのように⑦〜⑫を使われたのは、加登川氏・高橋編集長は、【総括・お詫び】に対しては、次の様な方向性と目的をお持ちの方と見うけられる。


引用《
高橋登志郎「南京戦史の総括的考察に反対された方へのお答え」より
大西サンの一ページ余の論文ではシロだシロだというだけだから、これでは20万、30万説は破砕できない。遺憾ながらあったものはあったとして30万の数的虚構の解明に当たるべきであると、土屋サンは述べておられるのである。これが正に偕行が本問題をとりあげた目的である。(「証言による「南京戦史」」(番外)=『偕行』1985年7月号P9 ゆうサイトより

それが、板倉氏等の他の編集委員の眼に触れると高橋氏の方は、偕行社『南京戦史』 P.758『戦史研究ノートの部=>「角証言」の信憑性について』で次のように主張を変えられているかのように見える。

引用《
むすび
二、角氏の証言で、真実と思われることは左の三点のみである。
1.どこの部隊か師団が判らないが、17日か18日ごろ下関の件で電話があったこと。
2.長中佐が「ヤッチマエ」と言ったこと、
3.松井大将と共に、下関付近で多数の遺棄死体を見たこと。

この1987年(昭和62年)12月 『偕行』1938年1月号 『角証言』発表以降に、他の編集委員の反論を受けて、この三点のみを真実とすることに変更されたようであるが、しかし、板倉氏は、私【高橋登志郎】の【2の長中佐】について、事実について疑問を呈しておられる以上、かつ畝本氏の3千や板倉氏の1万6千を受けていても、この高橋氏の政治的意向が少し歪んだものであったことは間違いないであろう。
同時に、他の軍人の方達も、当時は反論できうる知識がなかったかことが伺い知れます。因みに、松井大将が、下関で角証言にあるような遺体を見たと言うことは【日記】には記載されていない。
この事から、総括を出す当時に、畝本氏が【虐殺】という【定義不明】のことを加登川氏・高橋編集長に詰め寄られて3千と苦悩の果てに承知せざるを得なかったことは想像に難くなく、そもそも偕行社の【虐殺】の定義は、【国際法】による【陸戦法規違反】ということと、陸戦法規違反は前に書いた記事においても、【条約】という【相互合意】によるもので【【犯罪】】では無く、第3条にある【賠償】というであることは間違い有りません。戦争では【敵】への【殺傷】は【合法】であるにもかかわらず、その事について言及もしない当時の【総括】は、【陸戦法規違反】を何か異常な【犯罪】にすり替えたように、板倉氏の本来の意図とは違い、この場に及んでも、何等かの【政治的意図】を感じるものと言わざるを得ません。
そして、余談だが板倉氏も御自身の書籍で数値について書かれていることに関しては、【推測】として【陸戦法規違反】があると書かれているだけなのです。ここが重要なのですが、何か明確に90%〜100%在ったと言うことを言及されているわけでもありません。【可能性】という【ある・なし】であって、【蓋然性】という【可能性の内のパーセントの割合】を記述されているわけではありません。
国際法という以上、当然法廷論争が在ってのことと考えられるが、その様なものがあり得ない状態なので、あくまでも個人の可能性と言うことに過ぎない。そして、何度も書きますが、【陸戦法規違反】は【約束事を破った場合】の【その責任を認めれば】【賠償責任】が出る民事的なものであると言う事です。
板倉氏の1千3千から2万人という数値はあくまでも個々のケースからの【刑法】という【犯罪】での【司法裁判】の【判決結果】がありえない[【想像】による【推論】に過ぎない]ことは少し記述しておきます。

日本国や日本人にやたらと土下座を強要する人々は、この事を【理解できない】、【理解しない】、【知らない】、【知った上で都合が悪いので黙ってる】状態で TwitterやFaceBook、自分のブログ・サイト等で拡散されておられます。
【虐殺】の用語自体が、1937年の南京攻略戦当時の状況について使用することは不適切であることは当方の以前のブログ記事で書いて居りますが、【偕行社】の【お詫び】を使うのならば、せめて、当時のお詫びが為された事情や、基本的な【国際法】に於ける知識ぐらいは、知っておくべきだったと考えます。

【参考文献】ですが、参考文献は次のたった二冊である。たった二冊で分かる話なのです。

 

【参考文献】



・板倉由明著『本当はこうだった南京事件』 1999年12月1日 日本図書刊行会刊行 【Amazon】
・偕行社『南京戦史 史料集Ⅰ』1989年11月3日刊行 【Link】


この二冊の書籍を読めば分かる話なのだが、【ゆう 日中戦争−小さい資料館】の管理人の【トリミング】の提示に文章だけで、信じるのはどうしたことかと考えます。。
自分で主体的に、文献や資料を探せば、こういう【いかがわしいサイト】の誤った情報に惑わされることはないはずなのです。ご情報を拡散している方もそれに反論できなかった方も、どうか主体的に自分で情報を収集することを望みます。

 


TwitterやFacebookなどのSNSから弾かれた場合の緊急避難場所

2020年01月27日 19時33分26秒 | プロテスティア

もし、貴方が、TwitterやFacebookなどのSNSから弾かれて、当面の間、行き場を失った時の連絡を取る避難場所を提示させて頂きます。
是非、皆様に拡散して、ご利用下さい。


一つ目は、
hinata殿(@hinatanococo)に開設頂いた、掲示板です。
抗議する者たち/近現代史 https://9212.teacup.com/kingendaishi/bbs

二つ目は、
Emmanuel Chanel 殿(@Emmanuel_Chanelが開設されております掲示板です。
Le Château de Emmanuel Chanel 掲示板 https://forums.emmanuelc.dix.asia/
こちらには、次の区分があります。
General Topic/一般的な話題 https://forums.emmanuelc.dix.asia/viewforum.php?f=1
・Common Topics/雑談 https://forums.emmanuelc.dix.asia/viewforum.php?f=3
・Israel, Middle East, and Christianity/イスラエル・中東・キリスト教 https://forums.emmanuelc.dix.asia/viewforum.php?f=6

THE FORUM FORJAPAN, OUR NATION!/日本国民のためのフォーラム https://forums.emmanuelc.dix.asia/viewforum.php?f=4
・General Topics of Politics/政治一般 https://forums.emmanuelc.dix.asia/viewforum.php?f=5
・Japanese Education/日本の教育 https://forums.emmanuelc.dix.asia/viewforum.php?f=9
・Isuu of Whaling/捕鯨問題 https://forums.emmanuelc.dix.asia/viewforum.php?f=8

何かトラブルなどがなかった場合の連絡用としても問題的としてでも、又は何かトラブルがあった場合でも連絡用や御利用をお薦め致します。


Sachi殿へのプロテスティア(抗議)活動への賛同とご支援ご協力の程をお願い

2020年01月27日 00時00分00秒 | プロテスティア

当方が応援して居る御仁がおいでになります。
オーストラリアのダーウィンで、様々な妨害活動にもめげず、ラジオ番組で孤軍奮闘されておられる女性です。
Sachi殿という方ですが、海外へ向けての日本の真っ当な立場を拡散しようとされておられます。

日曜日の午後三時に、【Darwin FM】(https://radioau.net/darwin-fm/)で番組を放送されておられます。

【Twitter】では、🌏海外の声🇯🇵オーストラリアから🇦🇺Sachi@sachihirayama

【ブログ】は、【日本は世界を平和にします】(https://ameblo.jp/happychild-peace/)でも、主張や御意見を述べておられます。

皆様も、どうかSachi殿へのプロテスティア(抗議)活動の一環として賛同とご支援ご協力の程をお願い申し上げます。