野尻湖の朝焼け-1
★ 回想「田村塾」のこと (その-1)
再会
K野光子さんと四十数年ぶりに再会したのは、2007年5月のことだった。
再会のきっかけは、グアム島で主任司祭代行をしていたところに舞い込んだシスター米谷からのお誘いだった。田村さんの記念出版物に一文を寄せないかと言う内容であった。
私が12年前に55歳で司祭になったことをシスターから聞き知った光子さんが、是非会いたいと強く望んで、この日を迎えた。半世紀ぶりに会った彼女は以前と少しも変わっていなかった。重度の障害者なのに、楽天的で、祈りの深い、明るい性格の素敵な美人である。
私がイエズス会の修練院を、ホイヴェルス神父様の制止を振り切って飛び出したとき、そんな私を神父様は決して見捨てることはなかった。上京してみると、聖イグナチオ教会とは都電通りを挟んで向かい側、主婦会館の裏手にある光子さんの家の四畳半を借りて待っていて下さった。そこが、彼女との出会いと私の再スタートの原点であった。
田村譲次さん
田村さんの想い出や、その人柄について語るだけなら、もっと相応しい人が他に大勢いるに違いない。
だから一神学生崩れの私は、「預言者」であり、「教育者」でもあった田村さんの影響を強く受けた自分が、紆余曲折の末、何とか初志貫徹して司祭に成りおおせたことについて、また、気がついたら、いつの間にか当時の田村さんと同じ年頃になっていた私が、日本の教会の来し方と行く末を今どのように考えているかについて、少し書かせていただこうと思う。
話は遡るが、私が初めて田村譲次さんに出会ったのは、聖イグナチオ教会の朝ミサのときだった。改築前の教会は木骨モルタル建て、ネオゴシックアーチの古典的なスタイルで、一本の鐘楼がそびえていた。
上智大学に入学した最初の1年は、寮で同室になった一年先輩の森さんと、毎朝同じ目覚ましで起床し、そろって薄暗い香部屋に入るのが日課であった。5時半のミサを終えたアルペ管区長が、ミサ答えの田村さんや田原憲兵さんを従えて香部屋に戻ってくると、入れ違いにホイヴェルス神父様と森さんと私の3人が祭壇に向かう。当時、祭壇は内陣の一番奥にあり、司祭は信者に背を向けてミサを捧げていた。司祭と掛け合いでオウム返しに答えるラテン語の祈りの意味を、私はまだ十分に理解してはいなかった。
ミサが終わると、長いスータンをまとったホイヴェルス神父様と一緒に、香部屋からいったん外に出て、正面の入り口から聖堂内に入り、後方のベンチに膝まずく。そして、短い感謝の祈りを終えて外に出ると、いつもの顔ぶれの長い立ち話が始まるのである。
すぐに思い出されるのが、田村譲次さん、時(とき)さん(現在は時永神父)、田原憲兵さん、森さん(前の東京大司教区補佐司教)、広重さん(日石の社員)、K野さん(私の下宿の主人)、などの顔ぶれである。
場を仕切るのはいつも田村さんであった。憲兵さんが日本人離れしたややオーバーなゼスチャーでそこに合いの手を入れる。彼はよく笑った。広重さんは大人の風情。森先輩は思慮深く無口だが、時々賢い意見を述べていた。一番若輩の私は、そのやり取りを旺盛な好奇心で貪欲に吸収していくのであった。
「教育者、田村さん」の薫陶を受けて育ち、「預言者、田村さん」の言葉をその後の人生に体現したのが自分ではなかったかと、今ふと思う。だから私は、田村さんを追想し、田村さんを顕彰する意味をこめて、田村さんが撒いてくれた種が、私の中で如何に成長し、今どのような思いとして開花しつつあるかを書かせて頂きたいと思う。
時代的背景
それは、時あたかも、第二バチカン公会議の前夜であった。
この公会議が、教会の歴史の中でどれほど重大な出来事であったかは、その後の半世紀を通してようやく明らかになりつつあるが、当時はただ、教会が大きく変わろうとしているという漠然とした予感があるのみであった。ローマから最も遠い東京で、ちょうど地震の前のネズミたちのように、朝ミサのあとにたむろする田村譲次さんとそのお仲間たちは、動物的本能に響く得体の知れぬ波動のようなものとして、漠然とそれを感じ取っていたのである。
森さんはイエズス会の志願者を辞めてカルメル会に転進して行った。田原さんはサレジオ会だったろうか。私は、迷いながらも取り敢えずイエズス会に留まり、修練院に進む道を選んだ。
外の社会は60年安保騒動で揺れていた。教会の中では、多くの司祭や修道者・修道女たちが辞めて結婚し始めていた。私はといえば、修練院の静寂の中で、中世の遺物のような鞭打ちや、とげの生えた鎖帯による苦行の真似ごとに明け暮れしながら、はたして自分は大丈夫だろうか、このまま世間知らずの純粋培養で神父になった後、敬愛する先輩たちの後を追って自分も司祭を辞め、結婚する道に走るのではなかろうか、という不安に身を苛まれていた。
散々迷った末、結局修練院を出る道を選んだ。それが、唯一自分に正直な答えだったが、いつか本物の司祭になりたいと言う願望を棄ててしまったわけではなかった。これが、冒頭に書いたK野光子さんの家の四畳半に転がり込んだ顛末である。
今は、毎朝田村さんたちと立ち話をし、いろいろと影響を受け、教会の現状批判や未来への展望などを熱く語り合った日々のことが、ただ懐かしく思い出されるのみである。いわば、私は「田村塾」の忠実な塾生であった。
海外旅行が可能になったばかりの1964年に、ボンベイ(ムンバイ)で開かれる国際聖体大会に出席するホイヴェルス神父様に誘われて日本を脱出し、半年ほどインドをさ迷ったときに受けた衝撃は、その後の私の人生を大きく左右した。さらに、大学紛争も私の運命を大きく変えた。すでに中世哲学研究室の助手として働いていた私は、若い全共闘諸兄に共感を覚え彼らに近い位置にいたことが咎められ、上智大学を追われる羽目になったからである。
失業した私をドイツの銀行コメルツバンクに押し込んだのは、ホイヴェルス神父と、ビッター神父(イエズス会管区総会計)、チースリク神父(上智や聖心の教授でキリシタン史研究家)の三人のイエズス会士たちだったが、そうした動きの陰にも、常に田村さんの姿が見え隠れしていた。
コンスタンチン体制
ドイツ人老神父たちのお陰で、国際金融業における企業戦士としてのキャリアーが始まった。四谷の学習院小学校裏手の谷底、安アパートが密集する路地裏一帯を、私は「四谷のカスバ」と呼んでいた。そこが、光子さんの家を出た私の新しい住処となった。聖イグナチオ教会の平日の朝ミサには、もう出たり出なかったりであった。
1965年に幕を閉じた第二バチカン公会議の影響が、日本にもようやく及び始めていた。ラテン語の廃止、対面式ミサの導入などがその走りだった。しかし、この公会議がコンスタンチン体制の終焉を意味していたことに気付くまでには、なお長い時間が必要だった。
ローマ帝国版図の地中海世界で、属領の地位に甘んじ、傀儡政権の圧政に喘いでいたイスラエルの民に、「貧しい者は幸い」、「泣く人は幸い」、「義のために迫害されるものは幸い」と説いた心優しいナザレのイエスの教えは、最底辺の貧しい民衆の心を捕らえ、圧倒的な支持を広げていった。
皇帝を神として拝むことを強要し、従わぬものには十字架の死の恐怖をもって臨むローマ帝国の強固な支配体制に対して、イエスの憐れみ深い天の御父以外に神は無いと信じ、十字架こそ復活の希望、救いの印として、皇帝崇拝を拒むキリスト教徒の出現は、帝国の基盤の液状化を意味した。放置すれば、堅牢な帝国が、その土台から音を立てて崩壊する恐れがあった。
こうした事態を前にして、権力の側が取る常套手段は、迫害と弾圧である。これが12使徒を先頭に、数多くの殉教者を産んだ迫害時代の幕開けであった。しかし、叩いても、叩いても、潰れるどころかますます燎原の火のように燃え広がる信仰の炎の勢いを見て、権力者が次に考えることは、取り込みと懐柔である。
コンスタンチン大帝が紀元313年にキリスト教を公認し、その後帝国の国教扱いにしたのがまさにそれであった。具体的には、ローマの元老院の会議場、バジリカを教会堂として下賜し、キリスト教の祭司には元老院の議員の式服を着せる、等である。今日、ローマの由緒ある壮麗な教会がバジリカと呼ばれるのも、伝統的な祭服があのような形であるのも、全てその名残りと言えよう。
この時を境に、貧しい弱者の心のよりどころ、迫害されるものの救いの希望であったキリスト教は、一変して強者の後ろ盾、支配者の権威の精神的裏付けへと変貌していったのである。これは、ある意味で教会の敵、闇の勢力、すなわち悪魔の一応の勝利であった。
同じような現象、つまり、弾圧で潰せないものは取り込んで骨抜きにしよう、というパターンは、実は歴史への神の介入のあらゆる場面で見られるのである。
例えば、ルルドのマリア様の出現の場合がよい例である。貧しく、無学で病弱な少女ベルナデッタにマリア様が出現されたのは、教会が1858年に制定した「聖母マリアの無原罪の御宿り」の教義に対する、神様の明確な批准を意味していた。泉の水が湧き出したのも、奇跡的な治癒があったのも、全てマリア様の無原罪の恩宿りの教義が、人間の勝手に定めたものはなく、神様が望まれたものであることの保障であった。
それに対して、教会の敵、闇の勢力が、まず最初に用いる常套手段は、司教など教会の権力者を使って、少女を迫害し、出来事の揉み消しを図ることであった。そして、強権的に事実を隠蔽することに失敗すると、今度は逆にそれを取り込もうとするのである。壮麗な教会を建て、巡礼を奨励し、安っぽい土産物屋と宿屋と食堂を連ね、さらにこの世的なご利益主義と商業主義ですっぽり包み込んで、本来のメッセージ、大切な啓示から人々の目を逸らさせ、骨抜きにしてしまうのである。カトリック教会自身が、「出来事」と「新しい教義」との関連性を声を大にして叫び続けていないのは、私には実に不思議に思われる。これは、プロテスタント教会に対する重大なメッセージでもあったのに、その点もまた大きく取り上げられてはいない。私は、またもやそこに闇の力の勝利を見る。
コンスタンチン体制下では、キリストの福音、弱者への救いのメッセージは、閉ざされた修道院の奥や人里を離れた隠遁所、または市井の貧しい無名の聖者(その大多数は教会から認知されることもなく復活の日まで秘められたままでいる)の孤独な生き方の中にかろうじて命脈を保つのみで、大司教や大修道院長が君臨する絢爛豪華な大伽藍や僧院、王侯貴族の宮廷の華麗なチャペルなどでは、すっかり影を潜めてしまった。
今にして思えば、コンスタンチン体制とは、キリスト教を「弱者の宗教」から「強者の宗教」へと180度転換し、「被支配者、非抑圧者の宗教」を、地上の権力者の精神的後ろ盾とする「支配者の宗教」で置き換える体制であった。これがヨーロッパ中世を経て今日に伝わるキリスト教文化の枠組みである。それは日本史における聖徳太子と仏教の関係、そしてその後の日本の伝統文化の形成過程における仏教の役割によく似ている。そこでは、聖書は特権的聖職者に独占され、典礼もラテン語の教養のない庶民にはただの難解なお題目に過ぎず、一般大衆にとっての信仰は、ステンドグラスの絵物語からの知識や、繰り返し唱える簡単な祈り、諸聖人たちへの信心などに終始するレベルに低迷していた。おまじないや迷信と区別のつきにくい信仰形態にあったとさえ言えるかもしれない。
ナザレのイエスの説いた「改心して福音を信じなさい」も、改心の核心である「洗礼の恵の深い意味」も忘れ去られて行ったと言っても過言ではないが、この状態は中世を通じて、近代、現代に至るまで、大きく変わることなく持ち越された。
(つづく) (「その-2」へは左下の青字の「前の記事へ」をクリックしてください)
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