:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 聖人の死に方について(そのー3)

2024-09-23 00:00:01 | 神学的考察

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聖人の死に方について(そのー3)

ー映画「セントオブウーマン」(夢の香り)に触発されてー

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 野良犬のように自由な国際放浪生活にすっかり慣れていた私は、いつの間にか日本全国に羊を抱える広域牧者にもなっていた。

 昨年神奈川県のホームで洗礼を授けた老人が亡くなられ、その遺骨が岩国市のお姉さんの家に帰ってきたのを機会に、追悼ミサを捧げるために神戸から出向くといった具合だ。

 岩国まで行けば、元米軍兵士で、半世紀たった今もベトナム戦争のPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされている親友に会わなければならない。聖書のたとえ話ではないが、神戸中央教会のおとなしい99匹の羊をおいて、一匹の迷える子羊を追わなければ私は本物の善き牧者にはなれない、というプロの神父の本能のなせる業だ。

 間もなく90歳の大台に乗ろうという彼は、今も20トン積みの大型トラックの現役運転手をしている。年齢からいえば実に無謀な話で、このままいけばいつか運転中に事故って死ぬと私は恐れるが、彼にしてみれば、無心にハンドルを握っている時だけPTSDの嵐から逃れられる救いの時間なのだ。彼には無意識のうちにそういう死を願望している気配がある。私はといえば、仕事を終えた彼と温泉に入り背中を流しあう以外に、なすすべを知らない。私のキリスト教の話など、彼の恐ろしい記憶の前には羽毛よりも軽いのかもしれないのだ。

 時には彼の助手席に乗ることもあるが、たいていは彼が走り回っている日中は常宿の会社社長(いや、今や会長)夫妻の家でパソコンに向かうのが私のパターンなのだが、今回は朝から会長夫人と二人だけになり、「たまには映画でもいかが?」と誘われて、居間の特大の液晶画面に映し出された映画が「セントオブウーマン」(直訳すれば「女の香り」)だった。

 

 

 この映画、彼女のお勧めの一本だけあって、私の心に深く突き刺さり、万年故障気味の私の涙腺からは涙があふれ出たが、その感動の内容をうまく伝えるのは私の能力を超えているので、インターネットからの引用に任せることにしよう。

 孤独な盲目の退役軍人と心優しい青年の心の交流を描き、アル・パチーノがアカデミー主演男優賞に輝いたヒューマンドラマ。「カッコーの巣の上で」の脚本家ボー・ゴールドマンが自身の経験を加えて脚色、「ビバリーヒルズ・コップ」のマーティン・ブレスト監督がメガホンをとった。

【あらすじ】

アメリカボストンにある全寮制名門高校に奨学金で入学した苦学生チャーリーは、裕福な家庭の子息ばかりの級友たちとの齟齬を感じつつも無難に学校生活を過ごしていた。感謝祭の週末、クリスマスに故郷オレゴンへ帰るための旅費を稼ぐためチャーリーはアルバイトに出ることになっていた。そのアルバイトとは姪一家の休暇旅行への同伴を拒否する盲目の退役軍人フランク・スレード中佐の世話をすること。とてつもなく気難しく、周囲の誰をも拒絶し、離れで一人生活する毒舌家でエキセントリックなフランクにチャーリーは困惑するが、報酬の割の良さと中佐の姪カレンの熱心な懇願もあり、引き受けることにする。

感謝祭の前日、チャーリーは同級生のハヴァマイヤーたちによる校長の愛車ジャガー・XJSに対するイタズラの準備に遭遇。生徒たちのイタズラに激怒した校長から犯人たちの名前を明かすなら超一流大学(ハーバード)への推薦、断れば退学の二者択一を迫られ、感謝祭休暇後の回答を要求される。チャーリーは同級生を売りハーバードへ進学するか、黙秘して退学するかで苦悩しながら休暇に入ることになった。

中佐はそんなチャーリーをニューヨークに強引に連れ出し、アストリアホテルに泊まり、“計画”の手助けをしろ、という。チャーリーはニューヨークで、中佐の突拍子もない豪遊に付き合わされるはめになる。高級レストランで食事をし、スーツも新調し、美しい女性(ドナ)とティーラウンジで見事にタンゴのステップを披露したかと思うと、夜は高級娼婦を抱く。だがチャーリーは、共に過ごすうちに中佐の人間的な魅力とその裏にある孤独を知り、徐々に信頼と友情を育んでいく。

旅行の終りが迫ったころ、中佐は絶望に突き動かされて、“計画”―拳銃での自殺―を実行しようとするが、チャーリーは必死に中佐を引き止め、思いとどまらせる。ふたりは心通わせた実感を胸に帰途につくことができた。

しかし、休暇開けのチャーリーには、校長の諮問による公開懲戒委員会の試練が待っていた。チャーリーは、全校生徒の前で校長の追及によって窮地に立たされるが、そこに中佐が現れ、チャーリーの「保護者」として彼の高潔さを主張する大演説を打ち、見事にチャーリーを救うのだった。満場の拍手の中、中佐はチャーリーを引き連れ会場を後にする。

再び人生に希望を見いだした中佐と、これから人生に踏み出すチャーリーのふたりは、また新しい日常を歩み始めるのだった。

 

         

チャーリー役のクリス・オドネル   ドナ役のガブリエル・アンウオー 

 私はこの映画を見終えて、ふと、清水の女次郎長さんのことを思い出した。美しい清水教会の建物を守ろうとして捨て身で声を上げた彼女のひたむきな姿が、若いチャーリーの不利益を恐れず、真実と魂の純粋さを守ろうとする姿勢と重なって見えたからだ。

 

 外国人宣教師の残した業績は負の遺産だから教会の建物も含めて歴史から消し去れなければならない、というような無茶苦茶なインカルチュレーション(キリスト教の土着化)のイデオロギーが背景にあるのかどうかは知らないが、信者さんたちや地元の住民の反対を無視して、美しい教会の取り壊しに走る教会の姿勢に異を唱えた信者を「破門も辞さない」と大勢の信者たちの面前で威嚇し、鬱状態に追い込んだ高位聖職者を相手取って、パワハラ訴訟が始まったことを、彼女の支援者から送られてきた小さな朝日新聞の記事と傍聴者の一人が描いた法廷のスケッチが告げていた。

 

朝日新聞の記事

 

 同時に80人以上の面前で発せられた「破門を考えている」という言葉を聞いた信者たちの誰一人として、その事実を法廷で証言する勇気を持った人が現れないという危機的な状況も伝わってきた。

 それはそうだろう、巻き添えを喰らって「破門」されたら、信者生命に対する死刑宣言にも等しい。信頼していた親しい信者さんたちが一斉に彼女に背を向けて去っていったのも無理はない。「2000年前、イエス・キリストが十字架の上で惨(むご)たらしい最期を遂げたときも、主から愛し抜かれた弟子たちは皆同じ運命になることを恐れて散々(ちりぢり)に逃げ去ってしまったではないか。」と女次郎長さんは彼らの裏切りを赦している。

 

  

 32人の傍聴者の一人が描いたスケッチ        傍聴の支援者  原告 その弁護士

 

 聖人たちは皆、キリストと同じように遺棄と孤独を体験する運命にあるのだろうか。

 世俗の裁判の勝敗は金(かね)次第の面もある。金に糸目をつけず、優秀な弁護士団を揃えて受けて立つ教会側が勝つことも多い。しかし、証言台に立つ勇気を持った証人が現れなくても、「破門」をちらつかせたパワハラ発言を目撃した人が100人近くも存在する事実を否定できるものではない。神様の目から見て明らかな不義がまかり通った事実だけは、世に広く知られ語り継がれなければならないと思う。

 映画「セントオブウーマン」の主人公チャーリーが、自分の良心の声に忠実であろうとしたために、あわや名門校退学処分の判決を受けようとしたとき、スレード中佐が父親代わりに現れて高潔なチャーリーを救ったように、キリストとその天の御父は清水の女次郎長さんの魂を救い上げ、復活の栄光のうちに聖人として迎えてくださるに違いないと私は信じて疑わない。

* * * * *

清水教会問題に関する私の過去のブログもご参照ください(下のタイトルをクリックすると飛べます):

★ 清水の女次郎長がまた吠えた

★ 清水の女次郎長さんの地味な運動を知ってください - :〔続〕ウサギの日記 (goo.ne.jp)

★ 【号外】「清水の女次郎長」さんが久しぶりにつぶやいた

★ 《清水の女次郎長さんがまた動き出したようです》

 

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★ コメントの世界

2024-09-10 00:00:01 | 神学的考察

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コメントの世界

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 長年ブログを書いていると、いろいろなことが見えてくるものです。

 

谷口幸紀神父2020-01-13・jpg-2_1248.JPG

 

 最近つくづく思うことは、ブログを書いているのは私ですが、それを支えているのは読者のみなさまだということです。読んでくださる皆さんがいるから、また次を書く元気が湧いてくるのです。

 今どれぐらいの数の人が読んでくださっているのか、私の書くどんなことに興味を示してくださっているかは、自分のブログの「編集画面」を開けば、そこにリアルタイムで反映されています。

 編集画面の項目の中でも、私が特に注目して毎朝チェックしているのは、「アクセス解析」「コメント管理」です。

「アクセス解析」の中には、「過去の日別ランキング」があって、前日までの一週間の日別ランキングが出ています。

 例えば、昨日(2024.09.08)現在、グーグルの無料ブログ編集サイトを使って日本語でブログを書いている人は全国に3,190,231人、何と3百万人以上もいます。そして、私の場合、ブログを更新した当日はその3百万人のうち2104位(8月20日)、3585位(8月3日)、2962位(7月13日)、1755位(6月27日)、1449位(5月4日)と、だいたい1000位台から3000位台の間で推移しています。そして、ブログを書き始めてからの「トータルアクセス数」は 1,897,244回と、200万回の大台に近づきつつあります。

 また、今までに書いてきたブログの中で、過去のどのテーマのどのブログが今改めて読者の注目を惹きつけて読まれているかも特定できるようになっています。

 目立たないけど意外と面白いのが、「コメント欄」です。私のブログには、コメントを度々くださる方もおられれば、一回限りの方もおられますが、ほぼ全員がイニシャルやペンネームの匿名の方です。多くが好意的で建設的なコメントですが、中には、書き手はもしかして「悪魔」本人か?と疑いたくなるような棘のある悪意に満ちた悍(おぞ)ましコメントが届くこともあります。そんな場合、読者を不快にさせないためにブログのオーナーの意思で敢えて公開しません。

 中には稀に、ちょっと面映ゆくなるような、手放しの賛辞や励ましの言葉をいただくこともあります。そのような身に余るコメントは公開しないで、自分だけがいただいて記憶にとどめたいという衝動と、さりげなく公開するだけにとどめず、コメント者への私の気持ちも込めて「こんな勿体ないコメントをいただきました」と敢えてブログ本文でお披露目したい衝動との間で心が揺れ動くこともあります。

 今回の「聖人の死に方について」(そのー2)に対して戴いた(GM)というイニシャルの匿名の方からのコメントなどは、その後者の典型で、コメント欄を見落とされた方にもあらためて知っていただきたくて、積極的に本文の中で開示することにしました。以下はその引用です。

 

【コメント】 公開中 

 ★ 聖人の死に方について(そのー2)

2024/08/24 22:58:03

(MG)

 キリスト教2千年の歴史は、生きてる時にボロクソ言われていた人ほど聖人だということを教えてくれています。その筆頭は言うまでもなくイエスです。アシジのフランシスコなんて人も今でこそ大聖人ですが、生きてた時はどうだったのか、鳥に説教してる姿を見たらたいていの人はひきますから、実際はかなり変人扱いされていたのではないかと思います。逆に、生きてる時に聖人君子と崇められていた人ほど俗物であったりします。

 最近で言えばフランスのピエール神父、ラルシュのジャン・バニエ、イエズス会のマルコ・ルプニク神父。フランシスコ教皇は、画家としてはキコよりもルプニクの方を高く買っていたのではないでしょうか。それが今やイエズス会を追放される身とは・・・人を見る目のなさも含めて今の教皇さんはとても欠点が多く、これまたボロクソ言われる人です。

 信者の手を引っ叩いてみたり、同性愛者に対する差別的な発言をしてみたり、説教は10分でいいと言ってみたり(笑)でも、わたしはそんな人間的な教皇さんが好きですし、あれこれ批判される人だからこそむしろ信用できるような気がします。

 キコさんもまた異端だのなんだのって散々言われ続けてきた人です。特に日本では、かつてはその名を出すことすらはばかれるほどアンタッチャブルな存在だったということを今の若い人たちは知らないと思います。(もっとも、今の教会に若い人などいやしませんけど・・・)

 それと、谷口幸紀神父様という方。日本の教会でこのお方ほどこき下ろされた司祭もいないと思います。でも、最初に言いましたようにボロクソ言われる人ほど聖人です。キコさんのような老い方もありかもしれませんが、谷口神父様にはこれからもますますお元気で、変わらず教会に波風を立てていただきたいと思っております。わたしたちは心から神父様をお慕い申し上げております。神父様を置いて、誰のところに行きましょうか!

 

(影の声):  舞台の「お能」のように重く長大なブログの合間に、こんな「狂言」のように短かく軽いブログも許されるでしょうか?

 

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