高校無償化が始まって数年たつ。しかし、中退の割合が大きく減少したデータもなく、子供のために余裕資金がつかわれることもほとんどないようだ。働く人々の賃金が下がり続け、生活は苦しくなるばかり、高校中退率もあまり変化がない。
格差と貧困に関する本を読み続けているが、家族の貧困が、子供たちの貧困へと固定化され、貧困層の階級化が現在の日本の社会問題化している。
高度経済成長が続いていた頃、日本は大金持ちがいないけれども、乞食もほとんどいない国として世界から注目されていた。(日本では、乞食も新聞をよんでいるとして、日本の教育制度を絶賛する声もあった。)
そして、今、日本にも多くの大金持ちが増え、100万円を100人に配るような金持ちを多く目にするようになった。同じく、ホームレスの人々の群れをどこの街でも目にするようになった。
日比谷高校、その昔、東大合格者193人で日本一であったが、1967年に導入された学校群制により、進学エリートコースから崩壊、東大合格者1名まで凋落した。2000年以降、石原慎太郎知事のもと学校群制の廃止などで、より広い地域から優秀な生徒を集めることなり、現在、全国公立高校東大合格者1位として君臨している。すばらしい。
すばらしい、と思う反面、日比谷高校復活の陰で、多くの底辺校が誕生し、より偏差値の低い生たちが集中することになる。その授業風景を想像できるだろうか。そういう高校の先生や進学した生徒からいろいろな情報を得たが、まず、授業を始めるのに着席させるところから時間がかかる.。料理が好きで進学したが、高校1年生の2学期でbe動詞の授業が始まった、など。
<あおとやすし著>
新自由主義という経済政策がイギリスのサッチャー、アメリカのレーガン、日本の中曽根から安倍へと続いている。小さな政府での競争原理を導入し、できるものは、さらにできるものへ。豊かなものは、さらに豊かに、という政策だ。より力を持つもは確実に豊かな階級を確保する。そして、できないもの、貧しいもの、力のないものは、固定化された貧困層へと落ちていく。そこに登場するフレーズは、「自己責任」
貧困の負の連鎖、DVやネグレクト、低学力、基本の生活習慣の欠如、そこに高校中退という出口に辿り着くとさらなる貧困が待ち受ける。 歯磨きの習慣のない高校生、九九ができないABCが書けない高校生、一日机に座る意味をなさない。 それでも、高校生であれば、アルバイトもできるが、高校を中退した途端にバイトの口もなくなる。中退であれば、仕事が続かない、責任感がないと断られる。底辺の仕事しか働く場所がない。
美容師になるには、昔は中卒でも可能であったが、現在は、高卒の肩書がなければなれない。高校中退での就職先は非常に限られていていることを知らなくてはならない。
介護施設で働く高校中退の若い女性2人とであった。この本にでてくる中退の若者と同じく高校だけは卒業するべきだったという。中学の時は、夜中まで友達と遊ぶことが楽しく、また、誇りでもあった。現在は、介護施設で命じるままに仕事をしているが、せめて準看護師として働きたいと。高校中退、中卒であることが、実社会にでてみて、どれほど厳しいかを実感した。
高校進学を中心とした塾講師を35年ほど勤めたが、基本的に成績が中以上の生徒を教えてきた。底辺高校へ進学したものは多くない。最近、読むことが多くなった格差の問題や貧困の問題などあまり知らない場所で長い間、働いてきたようだ。 ただし、クラスの2割以上がシングルマザーかつ看護師である中3クラスが毎年の標準で、彼女たちは自分の子の負の連鎖をとにかく断ち切ろうとしていたのであろう。
ドキュメント高校中退からの引用
『
子どもが教育から排除されれば、その後に続く人生の可能性が奪われる。貧困は子ども たちから学ぶこと、働くこと、人とつながること、食べるなど日常生活に関することま でも、その意欲を失わせている。彼らから話を聞いていくと、ほとんどの若者たちが、経済的貧困にとどまらず、関係性の貧困、文化創造の貧困など生きる希望を維持できない 「生の貧困」に陥っている。それが親の世代から続いている。
高校の序列化が固定することで、高校教育による社会階層の移動の可能性も失われている。そのため、多くの子どもたちにとって、集団の中で文化や価値を対立させたり、交流させたりしながら、地域社会で連帯を育てるという貴重な機会が失われている。 貧困世帯の子どもたちを底辺高に囲い込むことで、同世代の異なる階層の若者たちと出会う機会 がなくなり、同世代の若者たちからも孤立する状況が生まれている。 高校中退は若者たち の中にも分断をつくっていくのである。学校間(階層間格差)はそのまま若者たち の集団を分断してる。
』
教育に関わる人に読んでもらいたい一冊である。