「崩壊する日本の公教育」(2024年)を読んで、考えさせることが非常に多かったので、2016年に出版された「崩壊するアメリカの公教育」(日本への警告 鈴木大裕著)を読んでみることにした。
アメリカで崩壊の寸前まで来ている公教育をそのままの形で追いかけている日本の公教育、その危うさの原点をこの本で知ることになった。
基本的な問いかけとして、この本では、以下のようにしめくくられている。
『勉強が将来よい仕事を就くための手段となり、子供たちの価値が、マークシートテストの点数で評価される中、彼らにとって今日の社会は答えしか提供しない社会そのものなのではないだろうか。 大事なのは正解だけ。彼らが何に興味があるのか、どんな問いを持っているのか、どのように答えにたどり着いたのかは関係ない。子供たちは、自由を求めてあがいているのではないだろうか』と。

個人的にこの本を読んで、興味深かった部分を書き出してみた。
<コーポラトクラシーと教育>
2008年、アメリカの著名な教育学者、クリスティン・スリーターが「コーポラトクラシー時代の民主主義の教え」という興味深い論文を発表した。コーポラトクラシーとは、企業の企業による企業のための国家統治の在り方で、「新自由主義の政治的な現れ」だ。現在のアメリカは、もはや民主主義(デモクラシー)ではなく、このコーポラトクラシーによって統治されているという。
その新しい統治の在り方の特徴として、人権よりも所有権の優越性を認めること、大企業・政府・大手銀行という三大機関の繋がりが中心にあること、それらを循環する一部のパワーエリートによる少数独裁政治であり民主主義に対するアンチテーゼであること、パワーエリートと一部企業の権利を守ることがその最大の目的であることなどが挙げられる。そして、我々は気づかないうちに、「コーポラトクラシーを進歩と見るように訓練され、正義や、自由、権利、民主主義などの概念をも、コーポラトクラシーの輪郭の中で形作っているのだ。」
そして、この新しい統治の在り方は、経済に必要とされる知識とスキルの重点化、それに伴う批判的思考の排除、それら教育コンテンツのコード化と標準化という形で教育にも反映される。その結果、商品化された教育は、公共財ではなく私的財と考えられるようになり、同時に教育の民営化が促進されることによって教育産業に暴利がもたらされることになる。そして、これこそ今日アメリカの教育界で起こっている現象そのものだ。
→ 実はトランプ政権は、トランプを取り巻くGAFAMの企業群を配下に置いているように見えるが、実は、これらの大企業によって操られいる政権と言えるのではないだろうか。ラストベルトの白人労働者を救うために戦うように見えて、実は、大企業連合の超インテリ集団を儲けさせるためにトランプを利用して、さらなる支配を形作る方法論ではないだろうか、と想像してしまった。

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もう一点心に残った文章
フランスの学者、ミシェル・フーコーは、1970年代からすでに新自由主義の危険性に警鐘を鳴らしていた。しかしフーコーにとっての真の問いは、民主主義とは相反する権力の集中や監視回家の構築など、新自由主義によるこれほどまでの社会変革を、なぜ私たちが許容するに至ったかにある。彼は次のように指摘している。
新自由主義は、人間を、経済的合理性を行動の基準とする「起業家」と位置づけた。そして、社会のあらゆる活動を経済的に分析する、まったく新しい価値観を提供した。その結果、教育までもが個人に対する付加価値的な投資とされ、教育市場における商品として再定義された。
さらには、私たち自身が知らず知らずに、それらの再定義された概念やデータにもとづく監視の「眼差し」を内在化し、自分たちの行動を制御し競い合うことによって、いつしか新自由主義の歯車となり、その支配を支えるようになってしまった。
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人間は、経済的合理性を行動の基準とする「起業家」であり、教育は経済的見返りを期待して行われる付加価値的な投資と理解する。
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→ 我々が教育を投資と考えて、子供に塾や習い事に通わせる。そのことが、大起業家軍団の思うつぼで、GAFAMなどの大起業家軍団を支える下層階級の虚しい努力なのかもしれない。トランプさえもそのようにして操られている、のだろうと想像してしまう。