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主夫の徒然なるままに

毎日の夕食作りに奮闘する主夫の独り言

「崩壊するアメリカの公教育」

2025年04月13日 | 日本の教育
「崩壊する日本の公教育」(2024年)を読んで、考えさせることが非常に多かったので、2016年に出版された「崩壊するアメリカの公教育」(日本への警告 鈴木大裕著)を読んでみることにした。

 アメリカで崩壊の寸前まで来ている公教育をそのままの形で追いかけている日本の公教育、その危うさの原点をこの本で知ることになった。

 基本的な問いかけとして、この本では、以下のようにしめくくられている。
『勉強が将来よい仕事を就くための手段となり、子供たちの価値が、マークシートテストの点数で評価される中、彼らにとって今日の社会は答えしか提供しない社会そのものなのではないだろうか。 大事なのは正解だけ。彼らが何に興味があるのか、どんな問いを持っているのか、どのように答えにたどり着いたのかは関係ない。子供たちは、自由を求めてあがいているのではないだろうか』と。



個人的にこの本を読んで、興味深かった部分を書き出してみた。

<コーポラトクラシーと教育>
2008年、アメリカの著名な教育学者、クリスティン・スリーターが「コーポラトクラシー時代の民主主義の教え」という興味深い論文を発表した。コーポラトクラシーとは、企業の企業による企業のための国家統治の在り方で、「新自由主義の政治的な現れ」だ。現在のアメリカは、もはや民主主義(デモクラシー)ではなく、このコーポラトクラシーによって統治されているという。

その新しい統治の在り方の特徴として、人権よりも所有権の優越性を認めること、大企業・政府・大手銀行という三大機関の繋がりが中心にあること、それらを循環する一部のパワーエリートによる少数独裁政治であり民主主義に対するアンチテーゼであること、パワーエリートと一部企業の権利を守ることがその最大の目的であることなどが挙げられる。そして、我々は気づかないうちに、「コーポラトクラシーを進歩と見るように訓練され、正義や、自由、権利、民主主義などの概念をも、コーポラトクラシーの輪郭の中で形作っているのだ。」

そして、この新しい統治の在り方は、経済に必要とされる知識とスキルの重点化、それに伴う批判的思考の排除、それら教育コンテンツのコード化と標準化という形で教育にも反映される。その結果、商品化された教育は、公共財ではなく私的財と考えられるようになり、同時に教育の民営化が促進されることによって教育産業に暴利がもたらされることになる。そして、これこそ今日アメリカの教育界で起こっている現象そのものだ。
 
 → 実はトランプ政権は、トランプを取り巻くGAFAMの企業群を配下に置いているように見えるが、実は、これらの大企業によって操られいる政権と言えるのではないだろうか。ラストベルトの白人労働者を救うために戦うように見えて、実は、大企業連合の超インテリ集団を儲けさせるためにトランプを利用して、さらなる支配を形作る方法論ではないだろうか、と想像してしまった。


もう一点心に残った文章


フランスの学者、ミシェル・フーコーは、1970年代からすでに新自由主義の危険性に警鐘を鳴らしていた。しかしフーコーにとっての真の問いは、民主主義とは相反する権力の集中や監視回家の構築など、新自由主義によるこれほどまでの社会変革を、なぜ私たちが許容するに至ったかにある。彼は次のように指摘している。

新自由主義は、人間を、経済的合理性を行動の基準とする「起業家」と位置づけた。そして、社会のあらゆる活動を経済的に分析する、まったく新しい価値観を提供した。その結果、教育までもが個人に対する付加価値的な投資とされ、教育市場における商品として再定義された。
 さらには、私たち自身が知らず知らずに、それらの再定義された概念やデータにもとづく監視の「眼差し」を内在化し、自分たちの行動を制御し競い合うことによって、いつしか新自由主義の歯車となり、その支配を支えるようになってしまった。
—-
人間は、経済的合理性を行動の基準とする「起業家」であり、教育は経済的見返りを期待して行われる付加価値的な投資と理解する。
—-


 → 我々が教育を投資と考えて、子供に塾や習い事に通わせる。そのことが、大起業家軍団の思うつぼで、GAFAMなどの大起業家軍団を支える下層階級の虚しい努力なのかもしれない。トランプさえもそのようにして操られている、のだろうと想像してしまう。


「崩壊する日本の公教育」2024鈴木大樹著 

2025年03月26日 | 日本の教育
「崩壊する日本の公教育」(2024鈴木大樹著)を読んだ。最近の教育に関する本としては最も共感し、驚きをもって勉強になった一冊である。

★「お客様を教育しなければならない」<つまり、「お客様」と化した生徒や保護者の要望に応えつつも、教育機関として生徒児童を指導しなければならない学校>この難解なジレンマ! このフレーズに、「思わず膝を叩く」想いがした。
 現在、小学校を中心に先生のなり手が減少し、先生不足が深刻化している。また、せっかく教職試験に合格しても辞退する若者が急増しているそうである。
 私の個人的な印象として、先生になりたくない理由は、長時間労働や給料の問題ではなく、モンスターペアレンツに代表する保護者との軋轢だと思っていた。また、そういう親を見た子供が、手出しできない教師をばかにする環境、教育実習などでみる手出しのできない無力で委縮した教師像に幻滅、そうやって教師をあきらめた若者が多いと思っていた。

 現実には、そのことを含めて、政府による「新自由主義」的な教育改革が根本にあることを知った。著者は、自らが体験したアメリカの1980年代から90年代に進められた「新自由主義的な教育改革」が悲惨な結果を残しているにも関わらず、その失敗を日本が後追いし、現在、日本の教育が瀕死の状態にしていると述べている。

 この「新自由主義的」という言葉がこの本で一つのキーワードになっている。「新自由主義」の主な特徴を調べてみると、
  • 小さな政府: 政府の役割を最小限に抑え、規制緩和や民営化を推進
  • 市場原理の重視: 市場の自由な競争を促進し、資源配分の効率化を目指す。
  • 個人の責任: 個人の自己責任を強調し、社会福祉の縮小を主張する傾向がある。
  • グローバル化の推進: 国境を越えた自由な貿易や投資を促進。

さらに、「新自由主義的教育」について調べてみると
  • 教育の市場化: 学校間競争を促進し、教育サービスを市場原理に委ねる。
  • 選択の自由の重視: 生徒や保護者の学校選択の自由を拡大する。
  • 成果主義の導入: 教員の評価や学校運営において、学力テストなどの成果を重視する。
  • 教育への公的支出の抑制: 教育予算を削減し、私立学校の役割を拡大する。
  • 職業訓練の重視: 実践的な職業訓練を重視し、即戦力となる人材育成を目指す。
 良いことだらけのようであるが、要するに学校を「塾化」させ、目に見える結果を出させる手段としての教育である。しかし、本来の「教育」、「子供を育てる」ということが、それでいいのか、また、その結果が現在どのような教育現場の風景となっているのかをこの本では警鐘している。

 さて、お客様である生徒に遠慮する学校と教員は、失われた尊厳をどうやってとりもどすのか。
 新自由主義的教育の解決策として、
1) サービス業に徹する。効率重視、マニュアル化、点数主義。見える結果のために働く。一定の効果を上げれば、だれからも文句が来ない。進学塾の在り方へ。

2)「ゼロトレランス」の名のもとに生徒指導をマニュアル化し、機械的に問題児を排除していく方向。「ゼロトレランス」とは、大きな秩序の乱れを引き起こさないよう、例えどんなに些細な学校規律からの逸脱段階で許さない厳格な制度指導方針のことである。極論を言えば、問題児は「別室指導」で、さらには、警察等関係機関との連携という名の引き渡し、つまり、排除する。アメリカでのゼロトレランスの実践では、拳銃所持やナイフ所持にいたらない小さな問題児も徹底的に排除し、学校も教師もそこに最大限の結果を出そうとする。しかし、ゼロトレランスによる生徒指導のマニュアル化や警察へのアウトソーシングが、教育であろうか、どこか、監獄のような息苦しさを感じさせる。それゆえ、多くの教師たちは、それが、教育なのだろうかという疑問に立ち止まり、苦しみ、落胆する。教育をあきらめる。教師をあきらめる。アメリカでは、公教育が破綻している。その破綻を日本が今追いかけている。


人が人でなくなっていく教育現場
 教師の体罰から子供たちを守るための行き過ぎた抑止の結果が、そんなものよりずっと恐ろしい、耐え難い傷を生徒たちに背負わせることになった。
 つまり、教師たちは、「やんちゃな子」に対して、抑止力を失っている状態で、野放しにされた彼らにとって学校という環境が天国となる。やりたい放題になる。小学校では、まだ、「かわいい」らしいが、中学生になると、6年間やりたい放題の不良少年たちは、「性」も含めて、どれだけ同級生をいたぶっても自分たちに危害が及ばないことを知っているため、躊躇なく抵抗のできない生徒をおもちゃのように扱っていく。

 個人的に学童の管理者から聞いた話であるが、小学校4年生の悪ガキが、指導員の指導に対して、「なら、殴ってみろ!殴ったら、お前をこの仕事から辞めさせるぞ!」と叫ぶ。指導員たちは、そうやって「おこり」もしなくなり、対応は管理者に任せ、管理者が怒るという繰り返しだそうである。

 これも、個人的な経験だが、ある塾の教室で、なかなか英語の学力が伸びない中1生がいた。よく𠮟ることもあったが、学校の点数が、ぐっと伸び、「やったね!」と肩を叩いたら、「何触ってるんだ」という目でにらめ返してきた。数日後、親が、教室をやめると伝えてきた。塾では、「やめる」という手段があるので、尾を引くことはあまりないが、学校では、そうはいかないと想像する。

 故に無法地帯と化した教室に平和を取り戻すためには、「ゼロトレランス」による生徒指導のマニュアルと警察による外部委託となるのであろう。
 そこにある教室の平和は、あまりに冷たく、「『現場から心がなくなっていく』を通り越して、人が人でなくなっていく」ことになる。教師たちは、「働き方改革」で、給料を上げたり、長時間労働を是正したり、部活や残業を減らすことで教師としての「人」を手に入れるわけでないだろう。


「教師という仕事が私を去っていった」
 「教育現場から、創造性、イノベーションや学問の自由が失われていった。効率化の名の下に、教材も、アクティビティまでもが教育委員会が採択したパッケージで教師に配布されるようになり、教師によるオリジナルなテストは消え、生徒の評価は、数値化されくことで教師の手を離れていった。」教師の仕事は確実に減るであろう。だが、公教育として、それでいいのであろうか。

 塾も同じような進化を遂げている。もう、教師は要らないので、教室と生徒・学生を管理するチューターがいるだけである。黙々とディスプレイの前で勉強する。「わからない」ので質問すると、「その科目のこの番号の講座をもう一度見なさい、1.5倍速で」などとなる。そこには、人と人の温かさはない。また、チューターという管理者(バイトの大学生の場合も多い)に「教える」経験はいらない。もし、これが、公教育の理想としたら、背筋が凍る。「ひと」がいない。「教師の本当の仕事」がない。

「教育とは、バケツを満たすことではなく、心に火をつけること」
 
日本の教育の現状を知るためには、多くの人に読んでもらいたい本である。




<ちょっと一言>
 もう一点、個人的に思うことなのだが、この本では、「塾化」という点数主義、商業主義、マニュアル化などが批判される。多くの塾がその点は基本としながらも、教育には理想をもって子供たちと接して塾も多い。子供たちも、学校では、味わえない講師や塾生たちとの教育現場的な触れ合いを求め、通塾している。塾が好きだ、塾に行くのが楽しいという塾生は、そういう教えの場を求め、また、生き生きと授業を聞き、講師との、また、塾生同士でのワイワイと過ごしている環境を楽しく学んでいる。教室のあるべき姿がそこにある。(私の教室にはあった。)




「資格を取ると貧乏になります」

2025年02月24日 | 日本の教育
「資格を取ると貧乏になります」佐藤留美著

 弁護士という仕事は、ドラマにもよく登場するため、正義のヒーローと感じている若者も多いと思う。また、合格率の低い(低かった)この資格をもっている人々は、かなりの高給をもらっていると多くの人が信じているだろう。

 しかし、TVでは、毎日のように過払い金の返還やB型肝炎給付金の返還CMが流れている。返還された金額の20%が弁護士の手に残るそうだが、ドラマの弁護士とはイメージが離れすぎている。弁護士であることで高給であることはなさそうである。



 目次を見てみると
第1章 イソ弁にさえなれないー弁護士残酷物語

第2章 待機合格者という生殺しー公認会計士の水ぶくれ

第3章 爺ちゃんの茶坊主になれ!ー税理士の生き残り作戦

第4章 社会保険労務士は2度学校へ行く

第5章 TOEICの点数が上がると英会話が下手になる

第6章 それでも資格を取りたいあなたのために

 弁護士の第1章はかなり面白く感じた。「イソ弁」とは、法律事務所に勤務している弁護士のことでこのイソ弁になれないと未来が暗くなる。「ノキ弁」とは「軒先弁護士」のことで、タク弁とは「自宅弁護士」のことである。さらに「ケー弁」とは「携帯弁護士」のことで、 イソ弁の道にすすめないその他の〇〇弁(護士)になると悲惨な未来が待つことなる?らしい。なぜ、過払い金の返還やB型肝炎給付金の返還に走る弁護士事務所や弁護士が多いのか、理解できたような気がした。

 私の教え子で「公認会計士」を目指し、バイトしながら勉強していた生徒がいたが、結局、2~3年では合格はできなかったようである。しかし、合格しても、この本によれば厳しい仕事の未来が待っているようで、「公認会計士」の資格を持ち、私は、「公認会計士」です、と言っても誰も振り向いてくれない状況が待っているそうである。それどもまだ、その資格のために勉強を励むのであろうか。

 さた、塾講師としては「TOEIC」の章は身近に感じた。
 英の資格として、英検をはじめ、多くの資格試験があるが、「TOEIC」は、日本人のために開発された資格テストと言ってよいものである。それも、入社試験でのレベルを示すために2000年以降よく使われてきた。この本にもあるように「ユニクロ」や「楽天」が企業内標準語を英語にすると発表したころから、「TOEIC」人気が爆発した。が、その後は、あまり英語の企業内標準語の話は聞こえなくなった。


 英語教育や英語の参考書で毎年、莫大な利益を上げているのは英国である。英語教育や参考書、資格に莫大な費用をかけているのが日本である。英語が悪いと言っているわけではない。が、白人の英語ネイティブ先生が、実はニューヨークのタクシードライバーである事実を私は知っている。オンライン英会のフィリッピン講師は、18歳程度の学生が多い。世界の経済や政治について論理的な話ができるわけでもない。大学近くの英会話教室では、今でも、ドラッグストアでの買い物の練習をしている。で、この国では、小3から義務教育の中で英語教育が始まっている。今から10年ほど前の資料では、日本は、世界で40番目に英語ができない国で、アジアでは、北朝鮮の一つ上のレベルであると知った。今では、世界170ヶ国中160位くらいの英語力というニュースをどこかで聞いた。
 英語の勉強に多大なお金と時間をかけて、全く英語力のつかない日本。いつまでたっても英語力の進歩のない低学力かつお金持ち日本人は、かなりのいい「カモ」かもしれない。「ユニクロ」や「楽天」が「企業内標準語を英語に」という話はもう聞こえない。



 「英語」は必要である。が、すべての日本人が「英語」を必要とする意味はない。英語圏の人々の家政婦になってほしくない。

 この本にもあるように英語力を測るには、企業面接で、「英語で、この事案の問題点について指摘してください。」で英語力はわかるはずだ。「TOEIC」の得点力は無力だと思う。日本語で「この事案の問題点」をも説明できなければ、高得点「TOEIC」保持者の意味は完全に消える。

 
 第6章の「それでも資格を取りたいあなたのために」では、ごく当たり前のことが述べられている。やりたいこと(仕事)があるから、その資格を得る意味があるのであって、その資格を得ることが仕事であれば、無駄な努力になる可能性が大ということである。「資格保持」の誘惑に多大な時間とお金を費やさないように、その手の「資格営利団体」に利用されないように気を付けてほしいと願う。












「高学歴女子の貧困」

2025年02月05日 | 日本の教育
「高学歴女子の貧困」―女子は学歴で「幸せ」になれるのか?
10年前の本だが、ちょっと読んでみようと思った。


 塾という教育に携わった者として、一生懸命勉強することは、より充実した人生を歩む絶対条件だと思っていた。貧困や階級、性差などによって学ぶことができない人々のきびしくも悲しい人生を想像するだけで、学ぶことの重要性に異論をはさむ余地はないと断言できた。そういう意味で、多くの優秀な女子生徒を育ててきた。塾を退職する年に、ある女の子からお茶の水女子大に合格したことを知らされた。最大の祝福を伝えたが、その結果が「貧困」であったら、たまったものではない。

副題の<女子は学歴で「幸せ」になれるのか?>は、女の子を持つ親には、興味津々の題名ではないだろうか

 ただし、なんとなく結論が想像出来そうなのでササッと読み終えようとページをめくることにした。結論は以下のようなものになる。 
  • 労働市場における女性差別
  • 女性であるための非正規雇用
  • 出産・育児によるキャリア中断、復職後のキャリアを継続する困難
  • 高学歴を得るための多額の教育費
 要するに、高学歴女子の貧困問題は、社会全体の問題として捉える必要があり、社会全体の意識改革が特に必要であると結論される。

 面白くないかも、で、読み始めてみた。

<目次>を見た。

第一章 どうして女性は高学歴でも貧困なのか ――二人の高学歴女子をめぐる現状――         
第二章 なぜ、女性の貧困は男性よりも深刻化しやすいのか?
第三章 女子の高学歴化は、彼女たちと社会に何をもたらしたのか?
第四章 女は女というだけで貧乏になるのだ
第五章 「アート系高学歴女子」のなれの果てとして、半生を顧みる

 上から目線の一般論かと思いきや具体的な体験のオンパレードだ。他人事で申し訳ないが、面白くて仕方がなかった。大阪大学、大学院卒でも年収200万という現実。無名な私立大学卒で、大学の事務職員のほうが年功序列の給料上昇、ボーナスあり、充実した福利厚生との女子社員と比較するむなしさ。

 私自身は、文学部卒である。お金に縁の薄い将来が待っている。自分の娘には、将来お金に困らない学部を選べと伝えていた。レディースビジネススーツを着て会社周りをしたいかと聞くと、それは無理、絶対嫌だと答えた。で、国立大学の医療系に進んだ。公務員になり、十分な有給休暇とボーナスをもらい、 高学歴女子の貧困の真逆にいるようである。

 ただし、旧帝大レベルの大学院卒の女性が、十分な能力を発揮できない日本は、それだけで未来が暗いと言わざるを得ないだろう。

 などと思いながら読み進んでいく。

 愚痴丸出しの体験談が面白すぎる。 

『さて、研究室のなかで、あるいは学会やその後の親睦会等で、女性ばかりがしばしば感じさせられる居心地の悪さの理由はなんだろう。彼女たちに敵対的とは言わないまでも、彼女たちを歓迎してはくれない研究者のコミュニティのあり方には、本当にいつも困惑ばかりさせられる。
 結局、圧倒的な男社会であるそこに居場所を得ようとすれば、彼女たちは「スカートをはいた男になる」か、「従順な女らしさで勝負する」か、両極端な二つのあり方のどちらかに黙って適応するより他にないのだろうか?
 女性である自分を否定することなく、 なく、男性との平等を追求する、などという道は、マイノリティである彼女たちには許されるはずもない、ということなのか?
 以上のように、女性の非常勤講師は往々にして、一方では性別役割分業規範の性格によって、他方では研究者コミュニティ自体の持つ男性的な排他性によって、研究の世界、およびその先にある専任職ポスト獲得の機会からも遠ざけられてしまいがちなのである 』

『 【磨きすぎた女子力は、もはや「妖刀」である。―女子が自由に生きるには】というタイトルの話は、なんとも刺激的だ。
 
 知性や教養を磨きすぎた女性、その心は、「磨きすぎると近寄るだけで切れるでしょ!?」、らしい。どういうことかというと、知性や教養を磨きすぎた女性は、それを隠そうとしても隠しけれない。だから、もし目の前にいる男の無教養を一カ所でも見つけたら、内心鼻で笑いたくなる。そしてそれは、ただちに相手にも伝わるだろう。男はバッサリ瞬殺され、一方の女は胸の内でまた落胆することになる。 、また。やっと男が寄ってきたというのに、どうして倒れてしまうのよ? 男に― アンタに近寄ってきてほしくて、私(自分)を磨いたのよ!なのに....。この腰抜け!   』

 高学歴女子の悲しみと悔しさが、どのページにも溢れかえっている。
 高学歴女子の怒りと絶望が満載のこの一冊、考えさせるとともに とても面白い。面白いと言ってごめんなさい。


 Fラン大学の問題、高校無償化の問題、クラスに3人はいる貧困にあえぐ児童の問題。母子家庭の貧困率5割の問題、無料塾の問題、そして、さらに、高学歴女子の貧困、教育を取り巻く状況は、はてしない。


 






つぶれる塾・予備校

2025年01月09日 | 日本の教育
 予備校「ニチガク」が突如、閉鎖。大学入学共通テストまであと2週間という時期に閉鎖した。「塾人」としては最低だ。想像するに、入試というイベントを利用して最後の金集めに走ったとしか思えない。冬期講習で集金し、直前講習で集金し、来年の共通テスト対策を今から始めよう高2生から集金する。そして逃げる。

 つぶれた塾・予備校を多く見てきた。最初に見た光景は、ある塾から送迎用の車を購入、その後、書類をもらいに行くと校舎は真っ暗、イスも机もない状態で、その後、話を聞くと、保護者からも借金をし、夜逃げ同然に消えて行ったそうである。


 自ら働いた塾も聞こえはいいがM&Aという名の身売りで、2度悲しい目にあっている。塾業界は、少子化の波に直撃される。私が、働き始めた時の子供数は約150万人、現在の赤ちゃんは、75万人以下である。凄まじい少子化である。その波を超えるべく「個別指導」という塾の形態が流行する。集団指導の塾講師を35年以上続きけた経験から、個別指導のメリットデメリットは、ある程度理解しているつもりである。塾経営者側から見るメリットは、なんといっても基本学生に任せることが多いので、賃金という報酬が最小限ですむということである。「ニチガク」のニュースを見ていても学生アルバイトが登場している。選任講師と学生アルバイトで効率的に働かせ、成績上昇と希望校合格を勝ち続ける強固なシステムが必要となる。少しでも弱みを見せ始めると生徒減が急速に進む。そして、教室閉鎖、倒産、会社が潰れる。



 M&Aで吸収された阿〇上塾は、最盛期13の教室を擁していた。その13教室のそばを通るたびに教室が減っていくのを見た。私が勤務していた時に2つ閉鎖された。その後1年で3つ閉鎖。それから昨年小倉北を通ると、いつの間にか教室が消えていた。そして、つい先日、八幡西区の南に位置する教室も阿〇上塾看板が消えていた。阿〇上塾45年のネームバリューも一瞬で消えていった。残るは3つか?

 それにしても、入試数週間前での閉鎖には驚く。個人的な話だが、私個人、入試2週間ほどまえに、数年前にいれた眼球レンズが、ずれてしまい、運転するのがとても危険な状態になった。片目が前方を見、もう一方が左を見ているという状況である。眼科に通うが、とにかく手術が必要ということで、入試当日の手術の予約をし、手術。その後1週間ほど勤務を休んだ。教室長としては、当然のことだと思っていたが、「ニチガク」の経営者たちは、その責任の軽さをどう思っているのであろうか、驚いてしまう。教育にたずさわる最低の人々であろう。


 ちなみに、このニュースから知ったのだが、2024年度の塾・予備校倒産件数は過去最大となり、特に負債額が以異常に大きかったことを知った。その主な理由は、個別学習塾運営の「個別指導塾スタンダード (福岡市)」が倒産したことにあるという。負債額は、約83億円。私の住む近くも次々とフランチャイズ形式かつ個別指導の塾が次々と開校したが、次々と閉鎖していった。その一つがスタンダードであった。塾は、小資本で開設可能であるが、継続して生徒集めをするのは難しい。塾の仕事の7割は生徒集めである。そのことを知らない学生アルバイト先生は、塾講師として就職を希望することになるのだが、そのブラックを胸に刻むべきである。

 さて、親としてどのような塾に通わせるべきか、どのような塾が倒産していくのかを見極める必要がる。(続)