見出し画像

主夫の徒然なるままに

私の見た塾の興亡史(1)

 自宅の周辺にあった開心塾永犬丸校が、ふと横を通ってみると別の塾にかわっていた。そういえば、一昨年だろうか大庭塾浅川校もいつのまにか空室になっていた。我々の高須進学スクールも十数年前に阿座上塾に吸収され、さらに2,3年前には、空ビルとなってしまっている。1980年~2000年頃までに戦った塾が青息吐息(あおいきといき) の状態になっている。
 私が塾講師となったのは、今からちょうど40年前になる。世界をふらふらと放浪することに嫌気がさし、高校のクラスメートが始めていた学習塾を手伝わないかという誘いにのってまったくの素人として歩き出した。塾というものがどういうものか、教えるとはどうするのか、日曜日に大型書店に行っては、本を買って勉強した。他の塾の講師にいろいろ質問しても誰もまともな返答をしない、ライバルに教えないのは当然か。とにかく、英語と得意の世界地理を武器に塾先生を開始した。
 当時もあすなろ学館とか、英数学館(鎌倉塾)、駅前に系列をもつ塾、そして様々な個人塾などが多くあったが、1980年中頃までに、廃校または、夜逃げする塾が後を絶たなかった。80年代前の塾は、どちらかというと成績の悪い子たちが行くための塾であったため、成績が中以上対象の塾に太刀打ちできなくなっていたのかもしれない。塾の経営方針が時代に取り残されていたというか、まだ、先生は偉いという時代にどっぷり浸っていた殿様塾が淘汰されていったのかもしれない。。
 当時の私の教える地域は、「塾に通う子」対「塾に行かない子」の戦いであった。「塾に通う子」は、成績が悪い子という常識が崩れ、塾に通い始めると成績がぐんぐんと上昇し、ならば僕も私も塾に通いたいという生徒が急増するようになる。当時の学校の先生たちも塾に無関心で、昨年と同じ中間期末テスト問題をだしたり、教師用指導書のテスト用問題をそのまま流用する先生も多く、考査での高得点は簡単であった。実力テストも過去数年分対策すれば、当時のフクトテスト(地域一番のテスト会社)でも高い偏差値獲得が可能だった。その頃のフクトテストは、福岡県の全中学校で実施されていて、会社の営業担当は、相当高圧的な態度であったことも思い出す。
 中学生の数も全国で230万人まで増えていた時代(現在は130万人)であり、我が塾も順調に生徒数を伸ばし、教室に入りきらないまでに成長していた。同じように生徒数、教室数を伸ばしていく塾も急増していた。ライバル塾が乱立する状態になる。
 一つ道をこえたところに開心塾がオープンした。私たちの塾では、夜11時まで補習をおこない好評を得ていたが、開心塾では、午前2時まで補習、中間期末考査中は、午前6時より対策をしていた。日曜日は、すべて補習で、長時間拘束によるスパルタ教育を行い、成績を急上昇させていった。成績を上げればすべてOKかというと問題点も多く、高校進学後には、成績が急降下する生徒も多く、高校の教諭からも疑問の声があった。私たちの塾にそこから転塾してくる生徒もいたが、入塾の筆記テストはいいが、雰囲気が非常に暗い生徒が多かった。無理やり感(無理に勉強させれれている感じ)が直に伝わってきた。その開心塾は、厳しさが有名となり、教室の数を増やしていった。本部教室は4~5階のビル。小倉にある徳力校は、立派かつ広大な校舎を誇っていた。その塾も内部抗争などを経て、現在は3つ、どの教室も小さな家屋ほどの教室になっていて、特に、徳力校は、阿座上塾のかつての徳力教室であり、私もそこで1年ほど教えていた時期があるが、古くて狭い校舎であった。一時期、阿座上塾の倉庫としても利用していた建物である。いったい何人の生徒が在籍しているのだろうか。同じように拡大していた大庭塾も教室を3つに減らし、競争相手の少ない地域に引きこもって営業しているように見えた。
 さて、我が「高須進学スクール」も多くのライバル塾との戦いに苦戦していくのだが、一般的な塾の歴史を振り返ってみよう。

 一般的な塾の歴史として、1960年代に塾が登場、1970年代には、乱塾時代といわれるようになった。企業としての塾(株式会社)が登場するのも1970年後半の頃である。高校受験を対象とした塾として、1980年代は、中学校の校内暴力が社会問題になるなど、公立中学校の威信が落ち、塾の進学指導などが社会的評価を得、塾の市民権が確立した時代であった。ちなみに金八先生の登場は、1979年である。1990年になると、塾は当然としての教育機関となり、中3生の6割以上が通塾するようになっていた。当時は、一斉授業が主流であり、教え方がうまい塾講師、成績を上げる塾講師がもてはやされた。一教室20~30人、50人以上という塾もあった。その頃から生まれた個別指導塾は、その後、塾として生き残ったのは1割もないといわれている。当時の「個別指導塾」のイメージをその頃のものとして引きずっている塾講師は、今でも個別指導塾に悪印象をもっている。

私の見た塾の興亡史(2)に続く


<想い出の一枚>壁一面に落書き、それを許す穏やかさがあった。


<主夫の作る夕食>
レンジでチンする焼きナス、キュウリのキムチ漬け、かぼちゃの味噌汁、ヒレカツ。

コメント一覧

jofu
コメントありがとう。高須進学スクールの教え子たちとは、いろいろなところでコンタクトできて、驚くやら嬉しいやら。写真担当は牛嶋先生なので、発掘作業をお願いしてみましょう。
できれば、下の名前でも教えてくれれば、写真探しもらくになるので、
また、コメントくださいね。
高進サイコー!
シゲ先生、めちゃくちゃお久しぶり〜

遅ればせながら、長年のお勤めお疲れさまでした!
そして主夫業、お疲れさまでございます笑

俺も何か記録を残そうと少し前くらいからド素人ブログ書き始めてて、昔の地元のこととか地図とか決行調べたりしてるんやけど、検索してたら、あれ?もしかしてシゲ先生?高須進学スクール?ってな感じでビックリ笑
(うちらの代もなんか塾で先生たちが写真撮ってくれたような気がするけど、持ってないんよね〜)

ちょくちょく覗きにきますね〜

※高須中ギリギリ間に合わず1987.3洞北中卒の古株より
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「塾」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事