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主夫の徒然なるままに

私の見た塾の興亡史(2)

 1980年代に入るといわゆる「ゆとり世代」の子供たちが誕生することになる。「ゆとりの時間」 が始まる。
 1980年代の荒廃する中学校、「校内暴力」は、凄まじいものがあり、中学校ではまともな授業が不可能になりつつあった。原因として多くのことが言われたが、印象に残る言葉としては、「詰め込み教育」「偏差値至上主義」「落ちこぼれ」などがある。塾には、授業を受けたい生徒やよりよい成績で希望の高校に進学したいと願う生徒が集まってきた。塾として、学力の向上には、基礎的知識の詰込みは必要であり、偏差値は、単なる順位の指標であり、「落ちこぼれ」ないように指導していくのは、当然のことであった。
 私たちの塾にもそういう生徒が多く学ぶようになる。時を得て、オーナーは3階建ての新校舎を建設し、キャパシティーを超える生徒が集まるようななった。その余裕というか思い上がりというか、それからが衰退への始まりとなった。塾業界の競争はさらに厳しいものになっていくが、伸びる塾の一つの方向性として、プロの戦略コンサルタントの導入や多角経営、多教室経営など個人塾では、手を出しにくい部分にどう攻めるかが企業の飛躍のポイントとなっていた。我が塾では、「しっかり授業をしていれば生徒は集まる」と過去の栄光を引きずった旧態依然の経営戦略のため生徒数をゆっくりと漸減させていくことになった。門配(校門なでで配布)や地域へのチラシ配りなど全くせず、新聞への折り込みチラシだで生徒集めをしていた。今から思い返してもぞっとするものである。気づいたときには、大手塾に身売りするしかない事態になっていた。
 当時の塾としては、小倉を中心に「阿座上塾」、八幡を中心に「シーズ鎌倉学園」などが地方塾として興隆していた。福岡県では、英進館などが覇を唱えていたが、まだ、北九州には進出していなかった。
 1990年代の「ゆとり教育」では、土曜日休業、2000年代では、小学校の授業3割削減などが記憶に残っている。この2000年代の時に小中学生だった生徒を「ゆとり世代」と呼ぶことが多い。ゆとりにどっぷり浸るか、しっかりと勉強するかで教育格差はさらに広がり、厳しいものになっていった。
 さて、経営が苦しくなってくると経営者たちは、いらだち、働く者たちにうっぷんを晴らすかのように怒鳴り散らす。コミュニケーションがだんだんと取れなくなっていく。この風景は、その後、ほかの会社でも何度も見ることになるが。社長としては、自分の給料は「0」にしても従業員のボーナスは出す。なのに従業員は、この会社を何とかしようとする気概がないと、頭を抱える、ぼやく。根本的戦略無しに場当たり的に生徒数を増やす方法を実行する。今から考えても、最悪だったのが、一度退塾した生徒(退塾するように仕向けた生徒も含む)に再入塾の案内を送ったことだろうか。それなりの人数が集まったが、勉強が嫌いで、塾が嫌いでやめていった生徒が親の強権で再入塾してもうまくいくはずもない。塾に混乱の種をまいて、教室の雰囲気を一気に悪化させることになった。学校が勉強する雰囲気がないという理由で塾に来ている生徒にとっても楽しめるはずの塾の雰囲気が悪化、さらに生徒数の減少を招くことになる。のちのち理解するのだが、塾に来る生徒たちは、勉強だけでなく、サロンとして塾、友達や先生と仲良く時間を過ごすことにも重要視して塾選びをしている。つまり、個人塾や少人数塾としては、生徒選びにも十分な配慮をしないとひどい目にあうことになる。
 さて、よく言えばM&A、悪いけば、身売りとして、「高須進学スクール」は、「阿座上塾」に吸収されていった。一時期、納税額が北九州で2位であったこともある塾だ、当時に比べて売り上げを落としていたが、それでも4億程度の売り上げを確保していた塾であり、地域では有名塾であった。
 我々の社長は、勇退。我々講師は、それぞれの教室などに派遣されていった。

私の見た塾の興亡史(3)に続く


<想い出の一枚>





<主夫の作る夕食>
親子丼を作ったら、「鶏肉のこまぎれ」を買ったと思ったら「鳥軟骨」だった。コリコリ音を立てながら食べた。大失敗。




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