「高学歴女子の貧困」―女子は学歴で「幸せ」になれるのか?
10年前の本だが、ちょっと読んでみようと思った。

塾という教育に携わった者として、一生懸命勉強することは、より充実した人生を歩む絶対条件だと思っていた。貧困や階級、性差などによって学ぶことができない人々のきびしくも悲しい人生を想像するだけで、学ぶことの重要性に異論をはさむ余地はないと断言できた。そういう意味で、多くの優秀な女子生徒を育ててきた。塾を退職する年に、ある女の子からお茶の水女子大に合格したことを知らされた。最大の祝福を伝えたが、その結果が「貧困」であったら、たまったものではない。
副題の<女子は学歴で「幸せ」になれるのか?>は、女の子を持つ親には、興味津々の題名ではないだろうか
ただし、なんとなく結論が想像出来そうなのでササッと読み終えようとページをめくることにした。結論は以下のようなものになる。
- 労働市場における女性差別
- 女性であるための非正規雇用
- 出産・育児によるキャリア中断、復職後のキャリアを継続する困難
- 高学歴を得るための多額の教育費
要するに、高学歴女子の貧困問題は、社会全体の問題として捉える必要があり、社会全体の意識改革が特に必要であると結論される。
面白くないかも、で、読み始めてみた。
<目次>を見た。
第一章 どうして女性は高学歴でも貧困なのか ――二人の高学歴女子をめぐる現状――
第二章 なぜ、女性の貧困は男性よりも深刻化しやすいのか?
第三章 女子の高学歴化は、彼女たちと社会に何をもたらしたのか?
第四章 女は女というだけで貧乏になるのだ
第五章 「アート系高学歴女子」のなれの果てとして、半生を顧みる
上から目線の一般論かと思いきや具体的な体験のオンパレードだ。他人事で申し訳ないが、面白くて仕方がなかった。大阪大学、大学院卒でも年収200万という現実。無名な私立大学卒で、大学の事務職員のほうが年功序列の給料上昇、ボーナスあり、充実した福利厚生との女子社員と比較するむなしさ。
私自身は、文学部卒である。お金に縁の薄い将来が待っている。自分の娘には、将来お金に困らない学部を選べと伝えていた。レディースビジネススーツを着て会社周りをしたいかと聞くと、それは無理、絶対嫌だと答えた。で、国立大学の医療系に進んだ。公務員になり、十分な有給休暇とボーナスをもらい、 高学歴女子の貧困の真逆にいるようである。
ただし、旧帝大レベルの大学院卒の女性が、十分な能力を発揮できない日本は、それだけで未来が暗いと言わざるを得ないだろう。
などと思いながら読み進んでいく。
愚痴丸出しの体験談が面白すぎる。
『さて、研究室のなかで、あるいは学会やその後の親睦会等で、女性ばかりがしばしば感じさせられる居心地の悪さの理由はなんだろう。彼女たちに敵対的とは言わないまでも、彼女たちを歓迎してはくれない研究者のコミュニティのあり方には、本当にいつも困惑ばかりさせられる。
結局、圧倒的な男社会であるそこに居場所を得ようとすれば、彼女たちは「スカートをはいた男になる」か、「従順な女らしさで勝負する」か、両極端な二つのあり方のどちらかに黙って適応するより他にないのだろうか?
女性である自分を否定することなく、 なく、男性との平等を追求する、などという道は、マイノリティである彼女たちには許されるはずもない、ということなのか?
以上のように、女性の非常勤講師は往々にして、一方では性別役割分業規範の性格によって、他方では研究者コミュニティ自体の持つ男性的な排他性によって、研究の世界、およびその先にある専任職ポスト獲得の機会からも遠ざけられてしまいがちなのである 』
『 【磨きすぎた女子力は、もはや「妖刀」である。―女子が自由に生きるには】というタイトルの話は、なんとも刺激的だ。
知性や教養を磨きすぎた女性、その心は、「磨きすぎると近寄るだけで切れるでしょ!?」、らしい。どういうことかというと、知性や教養を磨きすぎた女性は、それを隠そうとしても隠しけれない。だから、もし目の前にいる男の無教養を一カ所でも見つけたら、内心鼻で笑いたくなる。そしてそれは、ただちに相手にも伝わるだろう。男はバッサリ瞬殺され、一方の女は胸の内でまた落胆することになる。 、また。やっと男が寄ってきたというのに、どうして倒れてしまうのよ? 男に― アンタに近寄ってきてほしくて、私(自分)を磨いたのよ!なのに....。この腰抜け! 』
高学歴女子の悲しみと悔しさが、どのページにも溢れかえっている。
高学歴女子の怒りと絶望が満載のこの一冊、考えさせるとともに とても面白い。面白いと言ってごめんなさい。
Fラン大学の問題、高校無償化の問題、クラスに3人はいる貧困にあえぐ児童の問題。母子家庭の貧困率5割の問題、無料塾の問題、そして、さらに、高学歴女子の貧困、教育を取り巻く状況は、はてしない。

