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主夫の徒然なるままに

毎日の夕食作りに奮闘する主夫の独り言

インフルエンザ、病院行けず闘病記

2025年01月14日 | 病気との戦い
  妻が旧友と新年のお茶会へと小倉の繁華街へ赴く。次の日、悪寒のため仕事から早退、翌日発熱、かかりつけ医に受診する。インフルエンザA型と診断され、袋状の薬、イナビルをもらう。一回だけの吸入服用でおしまいという簡単便利な薬であった。



 何度か高熱のため解熱剤を飲み、咳止めも多く服薬した。それから3日、ゆっくりと回復にむかった。その日の夜に今度は私が、悪寒におそわれる。うつされたか? とにかく眠ることにした。夜8時ころ床に就き、次の日の10時ころに目を覚ました。よく寝た。しかし、熱は38度前後あり、病院受診を決意する。かかりつけ医に電話すると発熱外来の予約はいっぱいであると告げられる。今日は、土曜日。午前中のみの受付か。妻のかかりつけ医の病院も予約をのぞくといっぱいであった。それでは、予約の要らない中規模病院の受診を考えたが、2時間も3時間も待たされるなら、それだけで病状悪化しそうなので、受診をやめて、自然治癒にかけることした。明日が日曜日で次の日が成人の日という祝日で火曜日まで待つのなら、回復しているかもしれないという淡い希望にかけてみた。ネットでもインフルは、り患してから2日以内に薬を飲むこで症状が和らぐとあり、病院にかかることで1日か2日回復が早まるとあった。もし症状が悪化したら救急車で搬送してもらおう。その可能性は少ないと思うけれども。娘の話によると、年末に孫の具合が悪くなり休日診療の小児科を受信しようとしたら4時間待ちと知らされて受診をあきらめたそうである。本当に具合が悪いのなら救急車でなければ受診さえもしてもらえないかもしれない、それが現実かもしれない。



 軽く昼食をとって寝た。夕刻8時に目を覚ました。1日で20時間も寝たことになる。夕食を食べて、また、横になる。そんなに眠れるものなのかと思いつつ、また寝入ってしまった。起きると10時間寝ていた。2日で30時間寝たことになる。 体温は、37度台をあがったり下がったり、咳が時々出たり、鼻水も多少でそんなに深刻ではなかった。さらにまた寝る。午前中に2時間、午後から3時間と細切れだが、よく寝れる。

 驚いたのは、あまりに長時間寝ていたので体が硬直して、足がのばせない状況におちいったことだ。いわゆる「拘縮」状態になった。自分で足をのばそうにも伸ばせない。足首を曲げようにもうまくいかない。「こうやって人は死んでいくのか」とついオーバーに思ってしまったが、渾身の力で足を延ばし、足を動かした。

 ある記事で「1日安静にしていて失われた筋肉を回復するには約1週間、1週間の安静なら約1か月の回復期間が必要だ」「80代の高齢者は、1週間の入院で寝たきりになる」という記事を読んだ。恐ろしい。

 3日間、昼も夜も寝て過ごし、3日目の夜は、さすがに寝つきが悪く、3時間ほど寝られない時間が過ぎた。寝られないかと思ったらまた、8時間ほど寝てしまい、起き上がった。熱を測ると36度7分、熱も下がり、回復した感じを体から受け取った。

 TVでは、毎日インフル関連の番組やニュースをやっていたが、一番驚いたのは、あるクリニックでは、受診にファーストパスの制度を取り入れていたということである。お金を払えば、30分程度で受信できるというディズニーランドのファーストパスのような制度である。ディズニーも廃止したこの制度を医療の場で取り入れているのに違和感を覚えるというよりも怒りを感じてしまった。その番組では、ファーストパスを使っても1時間待たされたと言っていた。利用者がそれだけ多かったということだろうが、お金のない普通の人々はいったいどれほどの時間を待ったことであろうか。ひどいクリニックだ、そして、ひどい時代になったものだ。

 さて、結局5日目で熱が下がりあと2日で感染させるリスクもなくなるらしい。これでよかったのだどうかわからないが、とにかく闘病終了である。

 なんか、みんなに「ありがとう」と言いたくなってしまった。


 


(続・続)脳梗塞で緊急搬送 それから6か月 義母の場合

2024年12月26日 | 病気との戦い
脳梗塞で緊急搬送、カテーテル手術の不成功、入院治療。
通常の病院、つまり急性期病院でのこれ以上の入院はできないとのことで、療養型病院に転院に転院。(詳しくは、(続)脳梗塞で緊急搬送を参照)

面会は、平日1時から4時まで、土日は面会不可。これでは、働いている人には面会するな、とでも言っているようで土日面会を望む人が多いからであろうか、7月より土日面会が可能になった。閑散としていた病院に少し来院者が増え、活気が増えたような気がした。 

同じ病気で苦しむ人が多いのか、ほとんどが、鼻からチューブで栄養を取る姿で、かつ、寝たきりである。高齢女性の脳梗塞がそんなに多いのに驚く。口から食べ物をとることができないのは、相当苦しいことのように見えた。目を開けるのも、しゃべるのも、ひとつひとつが苦しそうである。可哀そうである。

遠くのベットから、男性の声がする。「コラ、ここから出せ!誰かいないのか!」よくわからない言葉を永遠に叫んでいる。いつものことなのか、特に対応しようとする看護師もいない。縛り付けられるようにこの病院に閉じ込められて、動けずに食べられずに何もできない、叫ぶだけが残された自由なのだろう。

面会に行くたびに苦しそうな姿を見るだけである。病院より電話がある、「血中酸素濃度も下がり、緊急事態に備えてくださいとの連絡が来た。
 面会に急いで出かけてみると意外と安定した状態になっている。ただし、表情は険しい、というか苦しそうである。とにかく苦しみが続いている。声をかけると目を開ける。だが、こちらの言葉が伝わっているか不明である。

 そんな状態が5か月続いた。ただただ苦しい表情が続いている。

 療養型といえ、病院であるので治療をやめるわけにはいかない。しかし、治すための治療ではない。苦しみから救う治療もない。ただ、生きている状態を維持するための医療。

 入院時に医者から「ここでの入院の平均期間は、6か月である」と聞いていた。今月12月がその6か月である。

 12月の20日過ぎ、続けざまに病院より電話がある。「血中酸素濃度が90を下回っている」「危険な状態である」。駆けつけると、マスクでの酸素濃度を増やしている。必死に呼吸をしている。見ているだけでつらい。最後に孫とひ孫に合わせようと面会に呼ぶ。ひ孫とは面会させてくれなかった。帰宅した。するとすぐに電話が鳴り、亡くなった知らせとなる。

 なんとも自信なさそうな若いアルバイトの医者がやって来て、死亡を確認、死亡診断書を書いてくれた。葬儀会社に連絡し、遺体を葬儀場に運ぶ。今回は、家庭葬向けに建てられた小さな会場で葬儀を行うことにした。モダンなつくりの明るい葬儀場である。今回も無宗教葬儀となる。親戚に連絡、10名で見送ることになった。

 長い苦しみから解放されたのか、死に顔は、少し笑っているように見えた。死化粧をされて、荼毘に付された。





   









無宗教葬儀

2024年10月29日 | 病気との戦い
義父が亡くなった。

 誤嚥性肺炎を繰り返し、口から食物をとることができなくなった。腕からの点滴に移行した。さらに腕からも点滴ができなくなり、お腹からの点滴に移行、あと数日と医者から告げられた。

 昔の人なので、葬儀社に会員登録し、毎月葬式費用を積み立てていた。その葬儀社に話を聞きに行くことにした。聞きたいことは、2つ。家族葬にする予定だが、どのようなものなのか。自分の親や親戚など今まで経験した葬式は、いわゆる多くの人が集まる一般的な葬式しか経験がないためどんなものか知りたい。もう一つは、全体の費用はどれくらいかかるのかということである。

 葬儀社によると、まず、現在ではほとんどの家では、家族葬が主流になっているとのこと。義父は、98歳であるので、友人知人も存命の人は少ない。会社関係とは、30年も縁が切れているし、子供は一人なので、親戚関係も数少ない。そういう状況での葬式が、現在では、非常に多く、家族葬となっている。ただし、家族葬といっても、15人から20人程度のそれなりに多くの参列者がいる場合も含まれている。義父の場合は、5名から8名の葬儀を考えていた。

 次に費用である。パンフレットをもとに説明を受ける。義父の積み立てコースは45万円のコースであった。通常そのコースで、積立金を含んで、おおよそ120万ほどの費用がかかり、その他の費用として僧侶の読経やお寺関係で、30万円ほどかかるとのことで、戒名費用も含まれていると言われた。つまり、僧侶関係は、セットで30万と決めてあるようだ。こちらからお寺にお伺いを立てる必要もなく、いろいろなパターンに対処してくれるそうである。

 総額としては、120万円ほどの費用から、事前の会員積み立て金45万+サービス10万円が引かれ、その他の割引をくわえて、葬儀では、プラス40万円程度の費用が必要だと言われた。つまり、家族葬90万円となる。ただし、参列者の食事代は別、読経戒名費用は、別であると説明を受ける。

 ここで、お寺との関係、僧侶との関係、お墓についての話になる。
  義父の場合、曹洞宗との関係が長く続き、毎月僧侶が、仏壇に向けて読経してくれる関係にあった。しかし、90歳にもなるとお寺との関係も遠くなり、コロナで完全に手が切れた状況になった。義母も入退院がつづくなどお寺関係どころではなくなり、さらに老人施設に入り、家屋も解体し、更地になった。仏壇も業者にひきとられていった。お寺との関係が全くなくなってしまった。ある意味、無宗教の家となった。

 そこで、僧侶を呼ばない場合は、どうなるのか、僧侶を呼ぶ場合はどうなくかを聞いてみた。お寺との関係がないのならば、こちらから僧侶を紹介するとのこと。なるほど、それが、僧侶のセット価格となると理解した。
 
 僧侶を呼ばない場合はどうなるのかを聞いてみた。いわゆる「無宗教葬儀」となり、読経の代わりに音楽などを流すなどの説明を受けた。私個人としては、僧侶の読経のない葬式が想像できなかった。どれくらいの割合で「無宗教の葬式」になるか聞いてみた。2割近くがそういう葬式になっていると言った。ある意味、そんなに多くなっていることに、個人的に驚いた。読経がなくどうやって向こうの世界に送るのだろうかというのが素朴な疑問であった。業者としては、手配の関係上、僧侶を呼ぶ場合は、早めに連絡してくれとのことであった。寺との関係がなければ、どこの僧侶でもいいわけである。

 妻は、無宗教でやることに或る程度決めているようであった。義母は入院中であり、親戚も少なく、反対する親族はいない。坊さんを呼ばない。

 祖父が亡くなり、葬儀社へ連絡する。事前に相談していたため、事は問題なくすすんでいった。無宗教葬儀ですること、参列者は、8名程度の予定。写真の用意などいくつか個人的な準備を言われた。
 納棺の儀式の流れとして、「末期の水」「湯灌(ゆかん)」白い仏衣を着せ、最後のメイクを施すことが、子供と孫とひ孫の5人の前で行われた。そして、納棺となる。通夜は、そこまでで、夕方には帰宅した。この日を通夜とは言わないかもしれない。

 葬式が始まる。弔問客は、家族を含めて14名(幼児2名含む)となる。予定していた人数よりは増えた。来れないだろうと思っていた親戚も来てくれた。僧侶のいない葬式に誰も違和感を感じていなかった。火葬場へ運ばれ、荼毘に付された。骨壺には、本名が刻まれていた。

 心に残るすばらしい葬式であった。







(続)脳梗塞で緊急搬送 義母の場合

2024年06月11日 | 病気との戦い


 老人施設で1か月ほど前、朝食のあいだに突然に体の不調をきたし、救急車で総合病院に搬送された。脳梗塞ということで、カテーテルの緊急手術を実施したが、高齢のために失敗した。(詳しくは=<脳梗塞で緊急搬送 義母の場合>のブログで)

  最初に搬送された病院は、急性期の病院、つまり通常のケガや病気を治すための普通の病院である。この急性期病院では長期入院ができなく、通常2週間程度で転院する必要がある。ある程度自立できる場合は、リハビリテーション病院などへ転院する。さらに重傷で、 在宅や老人施設などで療養や介護できない場合は、療養型病院に転院するようである。

 急性期病院では、2週間の入院後、転院するので、どの病院に転院するか至急知らせてほしいとのこと。満床の療養型病院もあり、いくつか転院可能な病院を紹介してくれた。その中から近距離の病院に決め、そこに話を聞きに行くことになった。

 説明にきた係の人は、丁寧に説明してくれるが、面会は、月曜から金曜までの1時から4時までとのこと。働く妻にはこの面会時間はきびしいものだと伝えると、「看護師の数が少なくて、土曜日日曜日の対応ができていない」と説明された。「もう、死ぬまで会えないかもしれない」と妻が小声で言った。何度も「人が足りなくて」と聞くと不安に思い、他の病院もネットなどで調べてみたが、結局、「近い」と言うこと、転院可能ということで、この病院に転院することになった。転院する2日前に、尿路感染症で、高熱が出たのでさらに入院が必要という話になった。寝たきり状態の場合、尿路感染症になりやすいと説明を聞いていたので「やはり」と感じてしまった。さらに入院期間が長引いた。

<ネットでお借りしている病室の写真>

 その間に老人施設の退所の手続きや部屋の片付けなどをする。退所を決めた日から1カ月が退所の日になると説明をうける。1カ月の施設代が必要となる。

 そうこうしているうちに、義父の体調が悪化、こちらも検査入院ということで、病院に入院。一週間程度で退院かと思っていたが、状態が悪く退院は延期となった。

 入院から2週間、さらに2週間の延長後、転院が決まった。病室に行くと、鼻からチューブで栄養をとっていたが、苦しいのか、大きな声で「アー」「ガー」などと叫んでいる。苦しいのかとたずねても反応はなく、20~30分間ずっと大声で叫んでいた。可愛そうであった。介護タクシーに乗り、出発する。眠ったようである。
 ところで、介護タクシーは結構な値段がするのに驚いた。ストレッチャーなどの福祉用具のレンタル費用なども含まれているので通常のタクシー代よりもずいぶんと高価になるそうである。



<ネットでお借りしている介護タクシーの写真>

 療養型病院に到着し、医者からの説明を受ける。
 前の先生から詳しい情報は得ていると話し始める。ここは、療養型の病院であり、家族からの強い延命希望がなければ、自然な状態で看取る病院であることを強調した。口から物が食べられないということは、本来、「死」を示しているけれども、鼻から栄養を与えたり、それも難しなった場合は、点滴で対応するとのこと。現代は、胃に穴をあけての胃ろうなどはしなくなっている。その他、ミトン(手袋)の使用や介護柵などの身体拘束などが必要になる場合があるので承諾書にサインが必要、その他、輸血の了承書など数枚のサインを求められる。また、夜間では、50人の入院患者に対し2人の看護師が巡回するそうで、2時間に1回の巡回で緊急事態の対応に限界があること、また、看護師不足のため土曜日日曜日の面会ができていないと説明があった。
 
 最後のダメ押しとして、この病院での平均入院期間は6カ月であることを表情も変えずに淡々と話した。ベッドの上で身動きもできず、食べることもできず、一日中横になって過ごすのは、可哀想である。しかし、認知症が重いので、今自分が入院していることも忘れるのが救いでもあろうか。余命6カ月と宣言されたと感じた。

 その他、こまごましたことを看護師から教えてもらい、病院の出口へ向かう。4人から6人のベッドがカーテンもせず並んでいる。ほとんどの患者が、ただ、寝ているだけである。一人だけテレビを見ている患者がいた。静かな世界であった。


 インドの風景を思い出した。
 インドのバラナシ(ヴァーラーナシー Varanasi)では、死期が近づいている年取った母親を家族が連れてきて家族と数日間過ごす。数日間とは、死が来るまでの期間である。その後、薪で火葬し、ガンジス川に流す。ある意味、幸せな最後かもしれないとつくづく思った。


 












脳梗塞で緊急搬送 義母の場合

2024年05月17日 | 病気との戦い
 妻の母、92歳が脳梗塞で緊急搬送された。つい先日まで元気であったが、昨日の朝、施設の朝食の時に片腕が動かず、食事もできないことから、救急車を呼び、病院へと搬送された。

 妻に連絡がいき、私も随行することになった。8時ころに発症、病院で説明を受けたのが10時ころ、検査に時間がかかり、医者と会って説明を受けたのが12時前。説明の内容は、まず、血栓の位置などを画像で説明を受ける。血管の状態なども鮮明な映像とともに説明があった。

 92歳という年齢を考慮して、
 (1)化学療法で治療する。つまり、薬などで血栓をなくす方法をとる。
 (2)管内治療法(カテーテルによる血栓除去)での手術をする。
この2つの選択のどちらかにするか決定してほしいとのことであった。(1)の方法では、回復の可能性はあるが、大きな期待はできない。(2)の方法では、回復の可能性は高いが、失敗の可能性もある。(1)の正負の幅(治るー治らない)が狭いが、(2)の場合の正負の振れ幅は広い、つまり、治る可能性は高いが、失敗した時のマイナスが大きいと説明をうける。大きなマイナスとは何かと質問すると、最悪の場合は、死亡ということになるとのことだ。

<画像はネットよりお借りしています>

 年齢が92という高齢なので、難しい選択だが、家族としてどちらかに決定してほしいと告げられる。ただし、1時間も2時間も話し合って決めるわけにはいかないので、5分から10分で結論を出してほしいとのことであった。医者としては、「すべき」に力が入っているように見えた。さて、廊下に出て、まず娘に電話してみようと妻が言う。娘は、3年間ほど大学病院の脳外科で働いていたので、何かアドバイスがあるかもしれないと考えたからだ。ただし、娘のいた脳外科は主に、脳腫瘍の専門で頭を切り開く手術の患者が多かったと聞いていた。娘曰く、カテーテルの手術はそんなに難しい手術ではないということであった。

 とにかく、危険であっても選択は、「手術」とした。そうでなければ、後悔することになるだろうと感じた。10分間の家族会議で手術の決定を医者に告げた。手術室まで同行し、見送った。
 

 待合室で待つことになった。病院内のコンビニでおにぎりとサンドイッチを買って食べた。最近の病院では、手術の時間中、待合室で待つと言うことはあまりなく、専用の連絡機器を持たされたり、スマホで連絡するという形式をとることが多いが、この病院は、とにかく待つことになっていた。待合室には、20名前後は常時いて、手術の多さに少し驚く。手術の時間は、1時間半から最長3時間程度かかると聞いていた。持ってきた雑誌を読み終わり、ネットを回り、TVを見て、長い3時間が過ぎた。
 
 番号を呼ばれ、医者と話すことに。手術は、失敗だと告げられた。血栓が複数あり、血管が老年のため曲がりくねっていて、カテーテルが到達するのに苦労したそうである。3回ほど試したが、うまくいかず、これ以上回数を増やすと血管が損傷する恐れがあり、中止したとのことである。画像を見せられながらの説明は、丁寧であった。ICU (集中治療室) に案内され、本人と面会となるが、意識ははっきりしないようであった。娘と手をぎゅっと握ったように見えた。

 今後の話になる。1日から2日でHCU (高度治療室) に移り、様子を見ることに。さらに今後の状況について聞いてみると、とにかく老齢のため、回復は難しく、2週間程度で退院し、医療型療養病床のある病院に転院することになるだろうと言うことであった。現在入居中の老人施設に帰ることはほぼ不可能と言われた。
 
 さらに、緊急事態が発生した場合の対応も訊かれた。本人と話し合われたことがありますかと言うことだが、もちろん、話し合ったことはなく、認知症も進んでいるので込み入った話はできなかった。家族の間では、延命治療は必要ないということで了解していた。病院や施設で延命治療をしている老人を複数見たが、複数のチューブに絡められて、寝ているだけの存在は、本人にとって幸せと言えるかどうか疑問である。

 今後、自分で食事ができるようになるかと医者に聞いてみた。ほぼ難しいとのことだ。栄養は点滴その他で補給するとの説明があった。最近の終末期の考え方で、食べることができなくなったときは、寿命と考えるのが基本ではないかと言われている。終末期老人では、胃ろうは、積極的に行われていないとも聞いている。
 
 すべてが、暗い話に向かうことになるが、残りの人生をしっかりと生きることを願うだけである。帰りに老人施設に寄り、状況などを説明した。施設には帰れそうにないこと、同じ施設にいる夫(祖父)にどう説明するかなどを話した。夫には、施設の方からやんわりと説明していく方針だとのことだった。

 2日後、病院より、リハビリのために「靴」をもってきてほしいと連絡があった。













<タカシン時代の一枚>





<主夫の作る夕食>
毎日献立考えるがたいへんだ。
エビチリ作ってみた。