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Dr.mimaが医原病を斬る!

C型肝炎の解決を目指し、国の責任を追及するため闘っています。

時計台(札幌)

2015年03月29日 07時00分00秒 | その他
北海道大学の前身である札幌農学校の演武場として、初代教頭のクラーク博士の構想に基づき1878(明治11)年に建設されました。
農学校の生徒の兵式訓練や、心身を鍛える体育の授業を行う場、および入学式・卒業式等を行う中央講堂として使われていた建物です。
開拓期のアメリカ中・西部で流行した風船構造と呼ばれる木造建築様式が特徴。
赤い屋根と白い壁が印象的な建物だが、市立図書館として使われていた一時期には壁の色が緑だったという意外な記録があります。
1階展示室では色の移り変わりや大火に遭った際のエピソードなど、時計台にまつわる歴史を展示。
2階では再現された演武場の歴史的な雰囲気を体感しながら、実際に時計台で使われているものと同じハワード社の時計機械を見学できます。
3月16日(月)黒澤誠二(由仁・三川C型肝炎訴訟団副団長)氏に車を止めてもらって、私が撮った2枚の時計台の写真(写真上、下)。
「友情とは何か?」を再考する記念すべき日でした。
やっと由仁・三川C型肝炎訴訟の展望が見えました。



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戦前の結核の特徴(後篇)

2015年03月28日 07時00分00秒 | その他
これも生活の方法とか色々なことが関係するため、
感染したら、どれほど発病するか、発病したらどれだけ死ぬかも考えなければなりません。
これも生活の方法とか、種々のことが関係するため、この数字もはっきりしないが、死ぬものがどれ位の速度で死んでいるかという統計はあります。
特に奈良県の砂川技師がつくられたものによると、表1がそれですが、男女約1000名、男性は1018人、女性は958人、合計1976人という死亡者について、警察の手をかり、医者の手も煩わせて、県の衛生技師らの手を使って、かなり詳細に調べたものがあります(表1)。 
そうすると驚くべきことに、1000人あたり500人が、11ヶ月で死んでいる。
7割5分はどれだけかというと、1000人について769人という数字が1年半で亡くなっています。
これを曲線で現すと図4の如くになります。こういうような急激な死に方をします。後はゆっくり死んでいのが特徴です。大部分は2年も経たない内に死んでいることが明らかです。
感染して発病したら、短期間に死んでしまうということになります。
丁度あの山の高い時期に日本では感染が多く、感染して発病して割合に短期間で死ぬということが、証明されたことになります。」と述べています。



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戦前の結核の特徴(前篇)

2015年03月27日 07時00分00秒 | その他
戦前の我が国の結核問題について、東大付属伝染病研究所(現医科学研究所)の佐藤秀三(東大、大正4年卒)は1940(昭和15)年10月9日東京市軍人会館(現九段会館)で、結核問題の医学講演会(実験治療社主催)の講演で述べた要約を引用する。
この年には東京オリンピック、万国博覧会も予定されていましたが、日中戦争1937(昭和12)年のため中止になった。
この記念すべき年には、長引く戦争と窮乏する生活から国民の鬱憤(うっぷん)を晴らすため、祭りや行事があらゆる分野で行われた。
佐藤秀三によると「結核は結核菌が身体に入って結核になるわけで、予防はその結核菌が身体に入ることを阻止できればよいわけです。
結核菌が発見されてから50年、その結核撲滅の努力はしていますが、一向に結核は減っていないのです。
そこで結核の予防を論じるに当たって、最初に結核がどれほど日本に蔓延しているかを知ることが必要です。
その年齢、地方分布をみておくことは必要なことです。さらにこの分布を、人為的にどう変えることができる、変えるのかを考えるためには、その実態をつかむことが結核の予防につながります。
今日はこの疫学方面のことを話したいと思います。


我が国では不幸にして結核の死亡率が非常に高い。
1年に人口10万人に対して200人死んでいる。それを年齢別に区別してみると、図1のような数字になる。
これは人口10万人についてであるが、たとえば女子が20才になると550人という数字になっている。
平均に対して2倍半以上の死亡率を示している。
男子も同じようである。これは25才の所にきているが、人口10万については500人以上、約2倍半になっている。
これは年齢別の結核死亡である。
我が国に非常に特有な現象であり、他の諸外国ではあまりみない。
支那(中国)においてもこの現象はない。
これは日本人の風俗、習慣および産業状態というようなものが、関係すると思うのでそれについて話したい。
この図1の山は、年齢の丁度15才から25才、30才位の所に死亡率が非常に高いということを示している。
根本的な人的資源の損失と、国防上における損害は、非常に重大なものである。
英国では図2のように、年齢がずっとあとの方になって山の高さが上がってくる。
これは.諸外国、先進国における一般にみられる形であって、日本のような形は非常に特有である。     
支那でも満州でもイギリス型を取っている。
台湾に行つても本島人と内地人と比較すると、内地人(日本人)はやはり図1のような山の形を取るし、本島人は山の形はずつと高くなるが、年齢はずっと遅れることが明かである。
これは諸君とともに非常によく考へなければならないことである。
この山の高い所を減せば、これだけを取ると、英国と同じようになる。
英国の死亡統計は10万に対して70人位になっているが、この山を滅しただけで10万について100数人かが減ってくるわけである。
我が国の結核の事業も、この山をへらすことが出来れば、まず成功したとみて差し支えないのである。 
それでこの山がいかにして高くなっているかを研究することが、結核病の最も重大な課題である。この山がどういうふうにしてできるかということを色々分析して考へてみると、若い時には結核の感染が割合に少なかつたが、ここにいたって感染が非常に多くて、感染するとその何%か10%か20%が発病する。これはツベルクリン反応が陰性であつたが、陽性になった時にどれだけ発病しているかということについては、しつかりした統計が出ていない。
1割くらいというが、悪い時には一割以上が発病する。発病しても慢性化してゆっくり死ぬと考えれば、第1図にはならない。したがって結核は若い時に感染し、ばたばたと急性の病のように死んでしまう。
この様な想定が事実であるかどうかを検討してみたい。
この想定が正しいかどうかをみるためには、ツベルクリン反応をみるのが一番正確である。
ツベルクリン反応は若いものに低く、年齢とともに高くなるし、陽性率は、田舎では低いが都会では高い。
この関係をグラフにしたものが図3である。石川県、愛媛県、福岡県は中間の所を通っているが、大体において田舎に少なく、都会に多いことがわかる。
次に死亡率であるが、田舎に非常に少なく、東京、京都、大阪あたりが非常に多い。」


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なぜ結核は広がったか?

2015年03月26日 07時00分00秒 | その他
わが国では有史以来結核はありましたが、明治政府ができ、1872(明治5)年10月フランスの技術者を招いて、現在世界遺産になっている官営の富岡製糸(蚕の繭から絹糸をとる)工場を群馬県富岡に創った。
富岡工場で働いていたのは、社会的地位の高い士族の子女が募集されましたから、製糸工場は華やいだ雰囲気を持っていた。
政府は富岡工場建設以降も官営の工場を建設して行ったが、1880(明治13)年からは民間へと払い下げを開始した。
ここからわが国の産業革命がはじまり、「女工哀史」の幕開けとなった。
工場主は労働力を貧しい農村から集め、彼女達は親への前払い金でしばられ、貧しい農村の家庭への送金などで、自由はなかった。
彼女達は女工と呼ばれ、狭い寄宿舎に収容させられ、12時間労(昼夜2交代制)働かされ、宿舎では二人で一枚の蒲団を使わされていた(ホットベット)。
女工のほとんどは20才未満で、中には12才未満の子供もいたという。 
また食事は砂交じりの南京米に、朝は菜っ葉の糠(ぬか)味噌汁に漬物(沢庵二切れ)、昼はそら豆に漬物、夜は焼き納豆に漬物(つけもの)というのが基本メニューだった。
彼女たちは資本家が当時飼っている犬以下の食生活を強いられていた。
このような労働条件(重労働と低栄養)だったので、女工に爆発的に結核が広がりました。
結核になり働けなくなった女工は、農村へ帰され、その結果農村でも結核が広がる原因になった(図)。
1931(昭和5)年まで女性の結核死亡率が、男性に比較してはるかに高率で、これが欧米諸国との大きな違いである。
結核患者は、産業革命後の経済発展の影響もあって1918(大正7)年以降一時減少しはじますが、1932(昭和6)年の満州事変(日本が中国の満州に侵略)の頃から再び増加に転じた。
丁度この頃からわが国は重工業国になり、工場には若い青年労働者が集るようになりましたから、今度は男性の中に結核が広がりました。
また軍隊という集団生活も結核の感染に拍車をかけ、満州事変以降は男性の結核が女性を上回るようになったのです。
軍隊の徴兵検査で、胸部のレントゲン検査(間接法)が行われるようになったのは1940(昭和15)年からのことで、それまでは空洞があり排菌している開放性結核患者も、徴兵検査には合格していた。
開放性結核患者は頑強な男性に多かったので、軍隊での結核感染は激しいものだった。
いずれにしても軍隊での結核蔓延は大問題で、富国強兵を目指す我が国にとって由々しきことでした。



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第2の国民病→第1の国民病

2015年03月25日 07時00分00秒 | その他
第1の国民病結核撲滅のため、ツベルクリン反応、BCGを、また地方病といわれた日本住血虫症撲滅のためスチブナール(静注)が行われた。
その結果、第2の国民病ウイルス肝炎が広がった。
私たちの世代(団塊の世代)は肝炎の感染のルートを明らかにし、治療を考える世代であった、
どういう立場を取るかによって医者の生き方が問わる時代でもあった。
残念ながら肝炎の感染ルートの解明に取り組む医者はいなかった。
それでは第1の国民病結核(日本住血吸虫症)はどのようにして克服されたのか?
この問題について考えてみたい。
不愉快なものになるかもしれないが真実を語りつがなればならない。


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サフォークラムの味

2015年03月21日 07時00分00秒 | その他
サフォークとは羊の種類(頭の黒い羊)で、士別市では観光やまちおこしのために約1100頭のサフォーク種めん羊が飼われています。
士別市朝日の疫学調査時、初めて食べたサフォークは素晴らしい味でした。
札幌から士別までは高速道路で2時間はかかりますから、そう簡単に行ける距離ではありません。
このサフォークが札幌で食べられるというので3月14日午後出かけてきました(写真1、写真2)。
店の名前は【いただきます】といい、しかも夕張郡由仁町産であると言う。
疫学調査でお世話になった2地域の不思議な縁を感じつつ楽しみに出かけました。
やはり通常のラムとは味は違いとても美味しく頂きましたが、士別市で食べたサフォークの味は忘れられません。(写真3)。





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種痘

2015年03月20日 07時00分00秒 | その他
天然痘予防を目的に1876(明治9)年5月18日、天然痘予防規則が発せられ、強制種痘が行われた。
我が国の予防接種の始まりで、種痘済証か種痘の跡のない者は戸籍移動ができ無くなった。
種痘期に種痘を受けない者には罰金が科せられるようになったが、この時代にはまだ種痘は人の腕から人の腕へとうえ継ぐというものだった。
この方法だと梅毒などの感染が起きる可能性があると言うことで、1909(明治42)年9月14日「種痘法」が改正され、痘苗(天然痘のワクチン)は牛の腹で創られたものになった。
また明治政府は、1973(明治6)年に内務省を新設し、この省が治安対策と伝染病対策も行った。
このため警察の手に防疫行政が委ねられることとなり、その後厚生省は1938年(昭和13年)1月11日に創設され、長い間日本の医療・衛生行政が警察の管轄にしばられ続けていた状態から解放された。 
外交文書で正式に戦争が終わった日は1945年(昭和20年)9月2日であるが、講和条約発効まで含めると1952年(昭和27年)4月28日が終戦の日である。
終戦後の予防接種はGHQの主導で始まり、我が国の公衆衛生を担当したのがC・F・サムスである。彼は「まずは占領軍の安全」のために、日本国民に徹底した予防接種を行った。
彼の回想録「DDT革命」によると、天然痘の流行があちこちで起き、1945年には臨時の処置として種痘が全国民に実施された。種痘は約6千万人に接種されたが、当時の天然痘の流行は治まらなかった。
その原因を調査した結果、「古い日本の法律に基づいて、彼らは接種する人間の腕をアルコール消毒し、メス(ランセット、種痘針ともいう)で4つの十字を入れ、ワクチンがこのあとに広がるようにしていた。そのように大勢の人間に予防接種をする場合アルコールが乾くまで待っている時間がない。
ところが、アルコールにふれるとワクチンのウイルスは死んでしまうので、われわれは実際には6000万人の人々に接種を行うなっていなかったのである。われわれはただ単にワクチン接種を行う動作をしていたにすぎなかったのである。それ故、もう一度細かい指示を送り、アルコールをそれ以降使わないように監督をしなければならなかった。
すべて初めからやり直さねばならなかったのである。接種は成功し、天然痘の流行は止まった。」と語っている。
日本人全員に種痘を行った3年後の1945年に、天然痘の流行が再び起きたので、免疫期間が切れたと判断し、すべての日本人に再びをするように指令を出したと述べている。
また1951(昭和26年)年春には、神戸周辺で天然痘が流行したため、神戸地区を中心に千4百万人に種痘が行われた。
戦後2年間で外国から650万人もの引き揚げ者がいたが、彼らすべてにも種痘がなされた(写真)。
1955(昭和30)年には種痘によってわが国で天然痘の流行が終焉した。
だが種痘は続けられ、種痘後脳炎を起こす事例が頻発した。
しかし接種を強制した日本の行政から何ら援助も保障も提供されなかった。
1970年に、北海道小樽市の種痘後遺症被害者が厚生省を相手取り、損害賠償の訴訟を起こした。  
同時期に立ち上がった「全国予防接種事故防止推進会」の精力的な活動も幸いして、「種痘禍」は報道機関でも取り上げられ、その実態が国民に広く知られるようになった。
1972年の夏ごろに種痘接種は全国的に中止され、同時に個別接種方式の導入と接種年齢見直しが図られた。
天然痘の撲滅が確認された1976年以降、日本では基本的に接種は行われていない。
1958年世界保健機構(WHO)総会で「世界天然痘根絶計画」が可決され、根絶計画が始まった。
WHOは天然痘患者が発生すると、その発病1か月前から患者に接触した人々を対象として種痘を行い、ウイルスの伝播・拡散を防いで孤立させることで天然痘の感染拡大を防ぐ方針をとった。
これが功を奏し、根絶が困難と思われていたインドで天然痘患者が激減していった。
この方針はほかの地域でも用いられ、1980年天然痘撲滅宣言を行った。
地球上でウイルスを根絶出来たのは天然痘ウイルスのみである。
我が国に種痘が入ってきた時は人の腕から人の腕へとうえ継ぐ方法でした。
即ち種痘後善感(種痘後局所出来た膿疱)部の血清(膿)を人から人へと植え付けることであるから、B型と一部C型肝炎ウイルスにも感染した。
また戦後の「サムス」の方法なら確実にペトリ皿の痘苗(とうびょうと読み、弱毒化した天然痘ウイルスの液)のなかに血液が入り込むためC型肝炎ウイルスも同時に感染した。



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難治性腹水の治療に成功した症例

2015年03月17日 07時00分00秒 | その他
53才、男性、B型肝硬変(非代償期)。
4人姉弟で全員B型肝炎ウイルスキャリア。
難治性腹水があり、他院で予後6ヶ月と言われ北大で生体肝移植を予定していました。
腹部膨満に耐えかねて年も迫った2014年12月29日当院転院となりました。
入院時HBV-DNA6.9LC/ml、体重67.0Kg、腹囲(臍上)90cm、その後、強力な利尿剤とアルブミン製剤、テラビックを投与しています。
2015年2月23日にはHBV-DNA4.3LC/ml、3月9日現在で体重56.6kg、腹囲(臍上)73cmと減少しています。
入院時の著名な腹水(写真1)は3月9日にはほぼ消失しています(写真2)。
食道静脈瘤も合併していましたので1月13日、1月20日、1月27日と3回食道静脈瘤硬化療法を行っています。
術後、食道狭窄をおこしましたのでバルーン下拡張術を行い、経過は良好です。
3月10日退院。





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さしま茶の里 「のぐち園本店」

2015年03月08日 07時00分00秒 | その他
1910(明治43)年創業。105年の由緒あるさしま茶。
さしま茶は静岡と並ぶ有名なもので、昭和50年第20回農林大臣賞受賞、平成3年第34回農林大臣賞受賞など多くの賞を受賞。茶畑は2ヘクタール。
野口正夫氏は1956(昭和31)年第3代目園主となり、その後平成13年から平成17年猿島町最後の町長に就任。
そして平成17年猿島は岩井市と合併し坂東市になった。坂東市の副市長も務めたこともある。
今はさしま茶業を4代目と一緒に活躍しています。
(写真左は4代目、右は3代目)
是非安くて美味しいさしま茶を飲んでください。
ご注文はいつでもお受けします。

さしま茶の里 のぐち園本店
〒306-0501 茨城県坂東市逆井2833-11
電話 0280-88-1446
FAX  0280-88-1452
http://noguchienhonten.com/



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肝がん白書

2015年02月28日 07時00分00秒 | その他
1999年「肝がん白書」日本肝臓学会から出版されたものである。
 今から20年前にまとめたれたもので、年齢については20年を加算する必要がある。
このなかで広島大学の吉澤浩司は「肝炎ウイルスキャリアの動向」について報告している。
1995年4月から1996年の1年間に献血した初回献血した272,343人を抽出し、その集団内におけるHBs抗原陽性率をまとめたものである。
HBs抗原陽性率は全体では0,67%と低い値を示しているが、これは初回献血者が抽出したことから、HBs抗原陽性率の低い30歳未満の献血者数が多数を占めていることによるものである。年齢階級別にわけてみると、HBs抗原陽性率は40歳代では1,46%と依然高い値を示し、40歳未満の若い年齢層でようやく1.0%を下回ることが解る。
これを地区別に整理してみると、各地区において整理してみると、各地区ともに40歳代において高い値を示し、特に北海道では40歳代の年齢層におけるHBs抗原陽性率が他の地区に比してきわだって高い値を示す点が注目される(図1)。
HCV抗体は同一の献血者集団におけるHCV抗体陽性率をまとめたものである。HCV抗体陽性率は全体で0.56%と、低い値を示しているが、40歳以上年齢層では1.29%、50歳以上からの年齢では2.54%と高い値を示している。これを地区別に整理してみると、福岡、広島・岡山、大阪地区の50代できわだって高い値を示しているのに対して、20歳未満の若い年齢層では、すべての地区において低い値を示すにとどまっている(図2)。
B型肝炎ウイルスの感染は、集団予防接種による皮下、皮内接種であることは医学的にも社会にも決着がついた問題である(B型肝炎訴訟)。
ではなぜ北海道にB型肝炎ウイルスキャリアが多いかというと、医療過疎のなかで保健婦が保健所(国)のいうとおり全道各地で予防接種を徹底して行ったためである。
また九州の福岡、佐賀、広島でHCV抗体(C型肝炎ウイルス)の保有者が多いのか?
この答えは簡単である。
寄生虫病予防法(法律第56号)下で日本住血吸虫症の患者に対して、研究所、保健所や医師会が何の疑問もなく、ガラスの注射器、ステンレスの針を使い回した結果である。
日本住血吸虫症ばかりではなく、一般の患者にも注射器や針の使い回しが行われたと考えるのが自然である。
1995年度の全献血者について検討すると、北海道のHBs抗原陽性率と福岡・佐賀の肝がん多発地域を比較すると北海道が有意に高い(<0.01)。
HCV抗体陽性率は福岡・佐賀が北海道より、有意に高い値を示す)(<0.01)。
厚生労働省は由仁・三川のC型肝炎訴訟で、注射器の使い回しをしていた医院群とその他の医院群ではHBc抗体でみるとかわらないのに、HCV抗体は違うのが可笑しいといってきた。
B型肝炎ウイルスとC型肝炎ウイルスの感染経路は違うのである。
答えは肝がん白書(1995年)および私どもの統計をみても明らかである。





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