天然痘予防を目的に1876(明治9)年5月18日、天然痘予防規則が発せられ、強制種痘が行われた。
我が国の予防接種の始まりで、種痘済証か種痘の跡のない者は戸籍移動ができ無くなった。
種痘期に種痘を受けない者には罰金が科せられるようになったが、この時代にはまだ種痘は人の腕から人の腕へとうえ継ぐというものだった。
この方法だと梅毒などの感染が起きる可能性があると言うことで、1909(明治42)年9月14日「種痘法」が改正され、痘苗(天然痘のワクチン)は牛の腹で創られたものになった。
また明治政府は、1973(明治6)年に内務省を新設し、この省が治安対策と伝染病対策も行った。
このため警察の手に防疫行政が委ねられることとなり、その後厚生省は1938年(昭和13年)1月11日に創設され、長い間日本の医療・衛生行政が警察の管轄にしばられ続けていた状態から解放された。
外交文書で正式に戦争が終わった日は1945年(昭和20年)9月2日であるが、講和条約発効まで含めると1952年(昭和27年)4月28日が終戦の日である。
終戦後の予防接種はGHQの主導で始まり、我が国の公衆衛生を担当したのがC・F・サムスである。彼は「まずは占領軍の安全」のために、日本国民に徹底した予防接種を行った。
彼の回想録「DDT革命」によると、天然痘の流行があちこちで起き、1945年には臨時の処置として種痘が全国民に実施された。種痘は約6千万人に接種されたが、当時の天然痘の流行は治まらなかった。
その原因を調査した結果、「古い日本の法律に基づいて、彼らは接種する人間の腕をアルコール消毒し、メス(ランセット、種痘針ともいう)で4つの十字を入れ、ワクチンがこのあとに広がるようにしていた。そのように大勢の人間に予防接種をする場合アルコールが乾くまで待っている時間がない。
ところが、アルコールにふれるとワクチンのウイルスは死んでしまうので、われわれは実際には6000万人の人々に接種を行うなっていなかったのである。われわれはただ単にワクチン接種を行う動作をしていたにすぎなかったのである。それ故、もう一度細かい指示を送り、アルコールをそれ以降使わないように監督をしなければならなかった。
すべて初めからやり直さねばならなかったのである。接種は成功し、天然痘の流行は止まった。」と語っている。
日本人全員に種痘を行った3年後の1945年に、天然痘の流行が再び起きたので、免疫期間が切れたと判断し、すべての日本人に再びをするように指令を出したと述べている。
また1951(昭和26年)年春には、神戸周辺で天然痘が流行したため、神戸地区を中心に千4百万人に種痘が行われた。
戦後2年間で外国から650万人もの引き揚げ者がいたが、彼らすべてにも種痘がなされた(写真)。
1955(昭和30)年には種痘によってわが国で天然痘の流行が終焉した。
だが種痘は続けられ、種痘後脳炎を起こす事例が頻発した。
しかし接種を強制した日本の行政から何ら援助も保障も提供されなかった。
1970年に、北海道小樽市の種痘後遺症被害者が厚生省を相手取り、損害賠償の訴訟を起こした。
同時期に立ち上がった「全国予防接種事故防止推進会」の精力的な活動も幸いして、「種痘禍」は報道機関でも取り上げられ、その実態が国民に広く知られるようになった。
1972年の夏ごろに種痘接種は全国的に中止され、同時に個別接種方式の導入と接種年齢見直しが図られた。
天然痘の撲滅が確認された1976年以降、日本では基本的に接種は行われていない。
1958年世界保健機構(WHO)総会で「世界天然痘根絶計画」が可決され、根絶計画が始まった。
WHOは天然痘患者が発生すると、その発病1か月前から患者に接触した人々を対象として種痘を行い、ウイルスの伝播・拡散を防いで孤立させることで天然痘の感染拡大を防ぐ方針をとった。
これが功を奏し、根絶が困難と思われていたインドで天然痘患者が激減していった。
この方針はほかの地域でも用いられ、1980年天然痘撲滅宣言を行った。
地球上でウイルスを根絶出来たのは天然痘ウイルスのみである。
我が国に種痘が入ってきた時は人の腕から人の腕へとうえ継ぐ方法でした。
即ち種痘後善感(種痘後局所出来た膿疱)部の血清(膿)を人から人へと植え付けることであるから、B型と一部C型肝炎ウイルスにも感染した。
また戦後の「サムス」の方法なら確実にペトリ皿の痘苗(とうびょうと読み、弱毒化した天然痘ウイルスの液)のなかに血液が入り込むためC型肝炎ウイルスも同時に感染した。
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我が国の予防接種の始まりで、種痘済証か種痘の跡のない者は戸籍移動ができ無くなった。
種痘期に種痘を受けない者には罰金が科せられるようになったが、この時代にはまだ種痘は人の腕から人の腕へとうえ継ぐというものだった。
この方法だと梅毒などの感染が起きる可能性があると言うことで、1909(明治42)年9月14日「種痘法」が改正され、痘苗(天然痘のワクチン)は牛の腹で創られたものになった。
また明治政府は、1973(明治6)年に内務省を新設し、この省が治安対策と伝染病対策も行った。
このため警察の手に防疫行政が委ねられることとなり、その後厚生省は1938年(昭和13年)1月11日に創設され、長い間日本の医療・衛生行政が警察の管轄にしばられ続けていた状態から解放された。
外交文書で正式に戦争が終わった日は1945年(昭和20年)9月2日であるが、講和条約発効まで含めると1952年(昭和27年)4月28日が終戦の日である。
終戦後の予防接種はGHQの主導で始まり、我が国の公衆衛生を担当したのがC・F・サムスである。彼は「まずは占領軍の安全」のために、日本国民に徹底した予防接種を行った。
彼の回想録「DDT革命」によると、天然痘の流行があちこちで起き、1945年には臨時の処置として種痘が全国民に実施された。種痘は約6千万人に接種されたが、当時の天然痘の流行は治まらなかった。
その原因を調査した結果、「古い日本の法律に基づいて、彼らは接種する人間の腕をアルコール消毒し、メス(ランセット、種痘針ともいう)で4つの十字を入れ、ワクチンがこのあとに広がるようにしていた。そのように大勢の人間に予防接種をする場合アルコールが乾くまで待っている時間がない。
ところが、アルコールにふれるとワクチンのウイルスは死んでしまうので、われわれは実際には6000万人の人々に接種を行うなっていなかったのである。われわれはただ単にワクチン接種を行う動作をしていたにすぎなかったのである。それ故、もう一度細かい指示を送り、アルコールをそれ以降使わないように監督をしなければならなかった。
すべて初めからやり直さねばならなかったのである。接種は成功し、天然痘の流行は止まった。」と語っている。
日本人全員に種痘を行った3年後の1945年に、天然痘の流行が再び起きたので、免疫期間が切れたと判断し、すべての日本人に再びをするように指令を出したと述べている。
また1951(昭和26年)年春には、神戸周辺で天然痘が流行したため、神戸地区を中心に千4百万人に種痘が行われた。
戦後2年間で外国から650万人もの引き揚げ者がいたが、彼らすべてにも種痘がなされた(写真)。
1955(昭和30)年には種痘によってわが国で天然痘の流行が終焉した。
だが種痘は続けられ、種痘後脳炎を起こす事例が頻発した。
しかし接種を強制した日本の行政から何ら援助も保障も提供されなかった。
1970年に、北海道小樽市の種痘後遺症被害者が厚生省を相手取り、損害賠償の訴訟を起こした。
同時期に立ち上がった「全国予防接種事故防止推進会」の精力的な活動も幸いして、「種痘禍」は報道機関でも取り上げられ、その実態が国民に広く知られるようになった。
1972年の夏ごろに種痘接種は全国的に中止され、同時に個別接種方式の導入と接種年齢見直しが図られた。
天然痘の撲滅が確認された1976年以降、日本では基本的に接種は行われていない。
1958年世界保健機構(WHO)総会で「世界天然痘根絶計画」が可決され、根絶計画が始まった。
WHOは天然痘患者が発生すると、その発病1か月前から患者に接触した人々を対象として種痘を行い、ウイルスの伝播・拡散を防いで孤立させることで天然痘の感染拡大を防ぐ方針をとった。
これが功を奏し、根絶が困難と思われていたインドで天然痘患者が激減していった。
この方針はほかの地域でも用いられ、1980年天然痘撲滅宣言を行った。
地球上でウイルスを根絶出来たのは天然痘ウイルスのみである。
我が国に種痘が入ってきた時は人の腕から人の腕へとうえ継ぐ方法でした。
即ち種痘後善感(種痘後局所出来た膿疱)部の血清(膿)を人から人へと植え付けることであるから、B型と一部C型肝炎ウイルスにも感染した。
また戦後の「サムス」の方法なら確実にペトリ皿の痘苗(とうびょうと読み、弱毒化した天然痘ウイルスの液)のなかに血液が入り込むためC型肝炎ウイルスも同時に感染した。
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