先日は熱海で土砂災害。いまは九州方面で線状降水帯による集中豪雨。この梅雨時期の災害というのは、ここ十年ほどでこの時期の日本のデフォルト気象現象になった様に思うのは私だけでしょうか。何時も思うのは高齢者で犠牲になった方など、ニュースでは「数字」で報じられますが、この亡くなった人達は今まで人生を生きてた中で、自分の人生の終焉がこういった災害の中で亡くなる事は想定もしていなかった事でしょう。要は災害の被害者を私達は数字で教えられますが、その数字の一つひとつにも人生があるという事を忘れてはいけないと思うのです。
私は二十歳から創価学会に絆されて活動を四半世紀近くやってきましたが、その活動をしてきたのは「広宣流布」という、いわば創価学会がぶち上げていた「理想」を信じてきたからでした。日蓮はこの事について御書で語っていました。
「法華折伏破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人となし天下万民諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり。」
(如説修行抄)
つまり日蓮の唱え始めた御題目を、多くの人達が唱える世の中になれば、この社会からは「悲惨」の二字を消す事が出来るなと言っていて、創価学会ではこれを「化義の広宣流布」と言い、日蓮の文字曼荼羅をばら撒き、創価学会の教勢拡大をする事で達成できると言っていました。私はこの事を真面目に信じてしまっていたんですね。
でも実際にそれを提唱していた創価学会が日本の中で一大勢力になった結果が、この今の日本の体たらくなわけで、まったく以て上手く騙されてしまったものだと感じています。しかし今でも創価学会の中で活動する人達や、アンチでも「正しい池田先生」や「過去の創価学会は正しかった」と信じている人達には、この失望感は解らない事だと思います。
以前にある男子部幹部からメールで言いがかりをつけられた時、創価学会が数十年かけて社会を変えられない事を指摘すると、「たかだか数十年で変えられるわけがない。いまは過渡期なんだ!」なんて言っていました。しかし私は少なくとも政治の世界では政権与党に入ったという事、また2001年5月3日と池田氏が定めた日付け以降の日本社会は確実に住みづらくなっている事を指摘しました。でもその男子部幹部は「創価学会が拡大する事で、この世界は確実に良い社会になる」と考え方を変える事はありませんでした。
思うに日蓮の教えであっても、仏教であっても、従来の宗教的な観点の枠組みで学び理解してしまっては、結果その宗教は「人を操る道具」とはなっても「人を自由にする方途」になる事は無いのでしょう。
それを考えるために、今回は「神」とか「仏」という事について、少し私が考えている事を、何回かに分けて書き連ねてみたいと思います。
◆神について
私は日本語圏に居ますので、この「神」を日本語の解釈を元に話をしますが、世界には様々な神があります。
一つはヤソ教(キリスト・イスラム・ユダヤ教)で言う「神」で、これは英語で言うと「GOD」と呼びますが、これは唯一絶対神の神を指します。この神とはこの宇宙や世界を創り、人類を創成した至高の存在を指します。中近東や欧米で基本的に「神」と言うと、この唯一絶対神を指し示しますが、私達日本人にはその「神」という事はある程度認識は出来ると思います。しかしそもそも文化的な背景も異なりますので、この「神」という存在を完全に理解する事はできないと思います。
二つ目は自然の中にある様々な働きなどを「神」として呼称するものがあります。インドのバラモン教は多神教ですが、このバラモン教の「神」の中には、こういった自然の働きを呼んでいるものもあり、日本の天照大神なども、この延長線上にある「神」と言っても良いでしょう。世界各地にあるアミニズム(精霊信仰)の中で呼ばれる「神」というのもこの部類に入ります。
仏教でいう「諸天善神」というのも、この多神教の神を指します。
もう一つは日本人独自の「神」です。これは藤原道真とか、徳川家康、明治天皇、東郷平八郎、乃木希典と言った実在の人物の死後に、例えば祟りを治めるため、また顕彰するために神格化した「神」というものがあります。天神様、日光東照宮、明治神宮、乃木神社、東郷神社などはこの類に入ります。
日本語では一言「神」と単純に言いますが、世界的に見るとこの様に多様な存在を「神」として呼称しているのです。
◆仏について
「仏」とは仏教で説かれている至高の存在ですが、本来の意味は釈迦一人の事を指していました。つまり「悟り」を開き、人生の苦悩を超越した存在という意味もあったでしょう。しかし大乗仏教からは、この宇宙には様々な仏国土があり、それぞれに仏が居ると説きました。
この仏の中には薬師如来や阿弥陀如来という様々な仏がいますが、そもそも仏教ではこれら仏も「覚者(悟りを開いた存在)」という事で、人々を救済すると言っても、本来は法を説き、人々を導くという存在でした。しかし仏教が人々の中に浸透する中で、これら仏も神通力をもって人々を救う存在となり、いつのまにか仏教を信じる人々にとっては、仏とは御すがりする対象へと変化していきました。
また日本ではこの「仏」という概念も、特別なものとなり、人は亡くなると「仏様」と呼ばれ、仏教でいう「仏」と混同して捉えられています。これは私見ですが、葬式に仏教僧が絡みだし、戒名を与え形式的に死者を出家させるという形式と、先の日本の「神」の概念の中にあった、死んだ人への尊崇の感情を抱く民族文化も関係して、この様な死者を「仏様」と呼ぶ文化が出来たのかもしれません。
◆近年スピリチュアルで言われる「神」
さて、近年になり主に欧米で「神」と呼ぶ場合、今までの様な「唯一絶対神」を指し示す言葉である「GOD」と言うものも、かなり変化をしている様に思います。
代表的なものに、アメリカ人のニール・ドナルド・ウォルシュ氏の著書「神との対話(Conversations with God)」は、神とニール氏との対話の記録となっていますが、ここで語られる「神」とは、決して創世記と言った聖書に書かれている神というものとは異なり、どちらかというと私達の内省的な処に存在する「神」を指している様に思います。この著作の中では「神」と私達の関係性は「同質な存在」であり、この宇宙の始まりと共に「神」は存在していたが、単体では自分を認識出来ない事から、自分の複製化を図ったという説明があり、その後、より多くの経験をするために自分をより多く分割・複製した先に、人間という存在もあると述べています。
その事から、宇宙の始まりにあった「神」と、私達一人ひとりは元々が「同質」な存在であり、「神」と同様に思考の具現化を行う能力を持ち合わせていると述べられているのです。
その事から、宇宙の始まりにあった「神」と、私達一人ひとりは元々が「同質」な存在であり、「神」と同様に思考の具現化を行う能力を持ち合わせていると述べられているのです。
これはアダムを創成し、天地を創造した神ではなく、宇宙の始まりと共に存在した「神」であるので、同じ「GOD」と言う呼び名を着けていますが、従来の「ヤソ教」で言う神とは異なる事が判ります。
またこの様な「神」とは、近年の欧米で語られるスピリチュアル的な思想を始め、様々な分野。例えば臨死体験で遭遇した「神」という存在や、果ては異星人との遭遇体験(アブダクションを含む)で異星人が語る「神」というものも共通した存在として語られている事が多く見受けられるのです。これはとても興味深い事でもあると、私は考えています。
(続く)