さて、前の記事では「折伏」という事について少し現状を鑑みた記事を書いてみました。日蓮の仏法は「折伏」と言われている事から、日蓮を信じる人の多くは対話を無視して、相手を組み伏す事が単純に折伏だと考え、それこそが日蓮仏法の信仰の在り方だという様な考え方をしているのでは無いでしょうか。
これに関連する御書として、「如説修行抄」には以下の言葉があります。
「今の時は権教即実教の敵と成るなり、一乗流布の時は権教有つて敵と成りてまぎらはしくば実教より之を責む可し、是を摂折二門の中には法華経の折伏とは申すなり、天台云く「法華折伏破権門理」とまことに故あるかな、然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば冬種子を下して春菓を求る者にあらずや、鷄の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪なり、権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや、」
ここでは今の時(末法と言われる現代)は、権経(法華経以外)は法華経の敵となると言うのです。ここで「一乗流布の時」と言っていますが、これは法華経が流布する時の事を指しており、日蓮は末法の今の時だと考えていました。そしてその時には法華経以外の経典の教えが敵となって紛らわしくなるというのです。その様な時であれば法華経でこの権経の間違いを責めなさいと言うのです。それが接受と折伏という修行で言う処の法華経の折伏だと言うのです。天台大師の述べた「法華折伏破権門理(法華経は折伏の教えであり、権経の教えを破折する)」とはこの事を言っているのであると。
その後には時に叶う修行をする事の重要性を述べ、権経と法華経が乱れる時には法華経の敵を責めないで、山林に籠って摂受の修行をするのは、時を知らない化け物の様なものであると述べているのです。
恐らく創価学会や宗門の人達で、この御書を知らない人はいないでしょう。だから創価学会の活動家は自分達が語る「池田哲学」を法華経の教えの一部と信じ、宗門の人達は自分達が信じる賢樹院日寛師の教学を法華経と信じて、それ以外の仏教の解釈や、その外様々な思想や哲学を「権経」と捉えて、とにかく否定して叩き潰す事を「折伏」だと考えて、ネット等でもいわゆる「難癖」の様に突っかかってくるわけです。
この御書を書かれたのは文永十年五月で観心本尊抄を著作された翌月で、対告衆も「人々御中へ」とある事から、日蓮門下全員に対して与えられたと言われています。
思うに佐渡期の日蓮は、龍ノ口で斬首されそうになった処を、寸での処でそれが止められ、佐渡に流されはしましたが、何時再び斬首されるか、また殺害されるか判らない状況の中で、門信徒に対する「檄文」として認められたのかもしれません。
「如説(法華経に説かれている様に)修行せよ!」と。
私は日蓮を末法の御本仏とも考えていませんし、日蓮は恐らく法華経に説かれている地涌の菩薩の先陣の上行菩薩であるという自覚のもとで行動した僧だと考えていますので、この御書を「御金言(誤りのない真実の言葉)」とは捉えていません。
その観点でここで言われる「法華折伏破権門理」という言葉について、少し思索を加えてみたいと思います。
◆法華経とは釈迦真実の教えなのか
日蓮が法華経を大乗仏教最大一の教えであると考えていました。そしてそれを証明する為の文証として、無量義経説法品第二にある「四十余年未顕真実」という言葉を用いています。これは法華経以前の四十年間あまりの間、説法された様々な経典は釈迦の真意の教え(真実の教え)では無かったという事の宣言だと言うのです。だから「権実相対」という事で法華経が他の経典よりも勝っているとしています。
しかしこの無量義経ですが、これは曇摩伽陀耶舎 (どんまかだやしゃ) 訳、481年成立と言われています。この無量義経には法華経にもあるサンスクリット語版すら存在せず、漢訳されたものしか存在しない経典と言われています。だから果たしてインドでもこの経典は存在したのか、現代では疑わしいと言われているのです。
またこの無量義経を法華経の開経として位置づけしたのは、天台大師智顗であり、釈迦の教説の時代的な整理をしたという「五時八教」も天台大師智顗の思想でした。
つまり天台大師智顗は、法華経を真実の教えであると証明する為に、五時八教として大乗経典を整理して、この無量義経を法華経の開経に設定したのかもしれません。
だから無量義経説法品第二に「四十余年未顕真実」という言葉があるから、それ以前の経典は真実ではないのだ、というバッサリとした削除論理は、現代に於いてはかなり乱暴な話だと私は思うのです。
◆法華経と法華経以前の教えの違い
では法華経とそれ以前の経典の違いは何か、そこを考えてみます。
法華経では開目抄でも日蓮は述べていますが、「二箇の大事」と言われる事があります。一つは「二乗作仏」であり、もう一つは「久遠実成」です。そしてそれにより法華経で述べられたのは、人々は本源的に「仏」であるという事を明言している経典です。また方便品第二では「要当説真実」として、この法華経こそが釈迦自身の真実の教えだと宣言しています。
ただ他の経典に於いても「真実を説く」という事は随所で述べられているので、この方便品第二の言葉だけで法華経が他の経典と比較しても際立って真実だと宣言するのはとても困難な事だと思います。
しかしよく考えてみると、法華経の思想(「二箇の大事」)を以って他の経典を見ていく事と、法華経を見ずに他の経典を見ていく事では、大乗仏教の目指すもの自体が、大きく変わってくるのです。
具体的に言えば、権経では仏になる為(成仏)には長きに亘り修行を必要としています。そしてその結果として得られる境涯が仏だとして説かれている事に対して、法華経の観点から見れば、既に自分自身の心の本質として仏があって、私たちはこの心の本質を理解する事が求められて来ます。そしてその心の本質を理解する為の様々な教えが権経であるという事になってきます。
要約して言えば、仏を目指すのが権経の見方となり、仏を自覚するのが法華経の見方という事だとも言えるでしょう。
また権経では自分自身と仏、またその外の衆生は個別に存在するという観点になりますが、法華経の観点で言えば、自分自身と仏は共に同じ心の本質(久遠実成の仏)を持った存在であり、自分と他の衆生も、ともにこの同じ心の本質から派生(という表現が的確なのかはありますが)した存在であり、そこに差別は存在しないという事になります。
この様に見ていくと、法華経とそれ以外の権経は、全く異なった教えであるのが解ります。そしてその内容は法華経以外の経典によって帰納法的に証明される教えではありません。その事から天台大師は「法華折伏破権門理」という事を言われたのでしょう。要は「法華経こそ真実の教え」であると押し通す事でしか、人々に対してこの教えは理解させる事は出来ないと考えたのかもしれません。
◆法華折伏破権門理について
ここで様々な事を述べてきましたが、この法華経は折伏だと言うのは、単に他の経典や、現代で言えば他の哲学思想を一切合切、安易に否定する事を言っているのでは無いと思うのです。
そうではなく、様々な経典や、広く言えば仏教以外の思想や哲学についても、法華経の観点を以って新たな見方を与えていく事が、現代に於ける「法華折伏破権門理」の言葉に当たるのではないでしょうか。そうであれば、まずは法華経を信じているという人達は、この法華経に述べられた「二箇の大事」と日蓮が述べた内容について、各々が思索してその本意について理解を深めていく必要があると思うのです。
しかしどうも創価学会を始め、宗門関連の人達は、ヒステリックに自分自身の持つ教え、それは池田哲学であったり、賢樹院日寛師の教学であったり、それを元にして相手を徹底して否定し、自分達が信じている教えを盲目的に信じている様に見えてしまうのです。
やはり単純に「マウントポジション」を取る事が「折伏」なんかではありません。それを理解して、もう少し広く考えてみてはいかがでしょうか。