自燈明・法燈明の考察

神とか仏とかの雑感②

 さて前回の記事からの続きを書かせてもらいます。
 私は「法華経とは大乗仏教の中で起きたスピリチュアル運動の経典」と考える様になっていますが、これは先の記事の最期に紹介した「神との対話」を始めとする近年の欧米で見える「神」という表現と、法華経にある「久遠実成の釈尊」という存在が、とても似ている事からです。

◆法華経は大乗スピリチュアル思想
 法華経の成立とは様々な説があり、未だに確定はしていませんが、凡そ釈迦の入滅から数百年ほど経過した紀元前後のインドであると言われています。
 当時、ある熱心な仏教徒たちが居て、彼らはどの様な教えを、どの様に修行すれば悟りの境地を得る事が出来るのか思惟していたと言いますが、ある時にその修行者の中で瞑想のうち釈尊にまみえる事が出来るという宗教体験をした人が居て、その後に同様な経験をする人達が増え、その中で釈尊から聞いたという教えが散文的に文書化され、それが後に「法華経」としてインドで成立したと言うのです。



 また中国では天台宗が法華経を中心として仏教を確立しましたが、その天台宗の修行も「内観」を中心としたものでした。当時の中国では「禅宗」と言えば「天台宗」を指し示す言葉であったと言われていて、いま「禅宗」と呼ばれているのは、当時の中国では「達磨宗」と呼ばれていたそうです。

 いずれにしても天台宗では法華経で説かれているという「一念三千」についても、内観により覚知するという事であれば、やはり仏教を切っ掛けとして「内省的な思索」の上で成立したものであり、それらと近年のスピリチュアル思想や臨死体験などで、人々が「神」として認知するものと同質な内容であっても、別に何ら不思議な事ではありません。

◆人の心の働きについて
 法華経では「一念三千」と呼び、人の心の瞬間の姿が自分自身にとどまらず、社会や住む環境にも展開する事を述べています。日蓮が南無妙法蓮華経を法華経の肝心と定めていましたが、「法華経に帰命する事」というのも、この人の心の真実の姿を信じる事、という意義があったのではないでしょうか。

 私達の心というのは、常に働き、自分自身を形作るにとどまらず、それが社会の中の様々な人々の心の働きなどと絡みあいながら社会を形成し、それと共に環境をも創り出している。けして「他者」とか「大いなる他の存在」が自分達をコントロールしている訳でも無いし、環境を作り出しているのではない。一人ひとりの心が作り出しているのが、私達の人生であり、その人生を送る社会や環境でもあるという事。そしてこれを「理解」する事が難しいので、この真実を「信じる事」を代替えとして(以心代慧)理解に勤める事を求めたのが、御題目という事だとしたら、どうでしょうか。

 また人間とは社会性を持つ生き物ですが、社会の中で「個人」と言っても、実は個人と他者は「同じ存在」から派生している存在であり、けして個々に分離された存在では無い。これは法華経の如来寿量品で「燃燈仏等」として久遠実成の釈尊が語った仏と衆生との関連性にも通じます。

 実は「法華経に帰命する」というのも、こういった本義があっての事であり、その意義を集約した言葉として「南無妙法蓮華経」という御題目があったとしたら、これを単に呪文の様に唱え、「強盛な祈り」をするというだけで事足りるとしたのは、大きく法華経の意義から逸脱したものとなるのではないでしょうか。

 ましてや創価学会の第二代会長の提唱した、日蓮の文字曼荼羅を「幸福製造機」というのは、そもそも法華経の思想にカスリもしない内容ではないでしょうか。

◆神は人が作り出した存在
 さて、ここで一つの考察をしてみます。
 先の記事でも紹介しましたが、ヤソ教の唯一絶対神は除き、例えばアミニズム(精霊信仰)などでいう様々な自然に対する神、また日本でいう人物を尊崇する中で呼ばれる神などは、実は人々が作り出した神であるという事は考えられないでしょうか。単純に名前を付けて神として崇拝する。多くの人達が信じて崇拝する事で、その人々の心の働きによって、そういった神は創り出され、力用を持ち、ご利益や罰など様々な働きをするのではないでしょうか。
 よく言う「稲荷信仰は商売繁盛の御利益がある」とか「天神様には学業成就に御利益がある」というのも、そういった私達の心の働きから作り出されている存在なのかもしれません。

 またこれと同じ事は、各仏教寺院などでいう「仏」に関しても同じ事が言えるでしょう。「薬師如来」が病気平癒で霊験あらたかだとか、様々な寺院にはご利益をさずける「仏様」という存在もありますが、これ等もそういう仏様を尊崇する人達によって創り出されているのかもしれません。本来、仏教で呼ぶところの「仏」とは「覚者」であり、人々にご利益を為す存在ではありません。あくまでも法を説き、人々に気付きを与えて救済するというものです。それがあたかも他の神々と同様に「御利益」を与える存在になってしまったのも、こういう人の心の持つ働きによっての事だと思うのです。

◆まとめ
 人は神や仏を立てて、その宗教に救いを求めます。しかしそれぞれの宗教の説く様々な「御利益」や「奇跡」という現証について、それを造り出しているのが人々の心の働きであるという事であれば、それぞれ宗教で説く「神さま」や「仏さま」という存在を単に信じるという事ではなくて、それらを造り出す「心」に対して目を向けるべきであり、単に「御利益」や「奇跡」を信じるという宗教の考え方は、そろそろ変えるべきではないでしょうか。


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