自燈明・法燈明の考察

信者と行者の違いについて

 さて、怪しいと思われる記事を最近書いていますが、ここで少し「創価ネタ」の記事でも書いておきましょう。ちなみに怪しい記事については、基本的に私個人が興味を持って調べている事、考えている事を書いていますので、不快に思うのであれば読み飛ばしてください。
(まあ「創価ネタ」もそんな記事ではありますが・・・)

 先日、ある創価学会の活動家と話をしたのですが、そこで感じた事を今回は書いてみます。

 その人は創価学会の打ち出し通り、真面目に選挙活動を始めていました。そこで私はその人に、広島選挙区の事、また遠山氏と日本会議の繫がり、その他諸々の事について話をし、如何に今の創価学会や公明党が過去の自分達の言動と自己矛盾をしているのか、疑問を投げかけました。そしてそんな今の創価学会な打ち出しに、唯々諾々と従う行動をしていて、果たしてそれで良いのか、私個人としては「動執生疑」になれば、という思いでした。

 しかしその話をした時、相手方に見て取れた感じは「そんな事言われても、どうしたら良いのか」「長年に渡り信じてきた事なので、受け入れられない」「それが真実だとしても、私は何も言えない」等々、そんな事でした。



 確かに、創価学会の組織の中で生きている人に、そんな学会に対して否定的な事を告げたとして「だからどうしろと言うのか!」という事は思うでしょう。その活動家も日々、様々な幹部と連絡をとり、創価学会の進める事を信じて生きているのですから、私の投げかける言葉は、そんな活動家の生活を否定する言葉です。
 また当然、創価学会の中で長年生きて来て、それを「生きる糧」として来た人に対して、私の投げかける言葉とは易々と「受け入れられる」という言葉ではありません。
 また私の言葉が真実であってとしても、相手の活動家は当然、創価学会の組織の中で、そんな事を会員にも言えなければ幹部にも言えるはずが無いのです。だって個人的に確証ある話ではなく、所詮、私からの伝聞に過ぎないわけですからね。

 結果として思考停止をしてしまうのは当たり前で、しかも私との人間関係を壊したく無ければ、言葉すら出て来なくなるのも当然の事なのです。

 これ以上突っ込むと、相手の人格否定にもつながる事にも成りかねませんし、相手に対して精神的なダメージを与える事にもつながります。そしてそんな事をしたら、そもそも相手との人間関係すら崩壊してしまうので、私は「とにかく良く考えてみて欲しい」という事で、話は終わりました。

 本当に創価学会とは罪深い組織ですよね。

 創価学会の活動家は良く「下種をする事が大事」と語り、「折伏こそ今の修行」と、事ある度に勇ましく口に出して言いますが、そもそもそれって現代にそぐう言葉なのでしょうか。

 私は法華経を私なりに読んでみました。併せて日蓮の書いた開目抄も幾度か全文読みました。当然、此等を読む際に創価学会講義集だとか、日蓮正宗の講義録なんて頼りません。何故なら私はこれら2つの宗教団体は信用してませんので、古文の辞典(ネットにあるもの)を頼りに読み込んてきました。

 そこから思った事ですが、まず「下種(仏の種を下す)」という言葉はおかしいですよね。何故ならば法華経の一念三千が指し示した事とは、人は元来仏であると言う事です。だから「仏の種」を下すのではなく、本来なら「気付きの言葉」を語るとか、相手が自身の中にある「仏」を認識出来る言葉を語るわけであり、その為には当然、相手が「法を求めている事」が大前提になると思うのです。

 細かい事ですが、言葉遣いとその認識が、そもそも間違えてませんか?

 あと一つ。「折伏」という言葉も間違えていると思います。折伏とは、相手の間違えた法を、正しい法を以って折り伏させるという意味があります。これについても、相手が「法を求めている事」が大前提の言葉ですよね。

 例えば釈迦も三十歳で成道する前には、只管正しい法を求めていましたし、舎利佛や目連も同様であったと思います。だから彼らは迷う事なく正しい法を求め、舎利佛や目連は迷う事なく釈迦の元に馳せ参じました。

 日蓮も同様で、折伏をした相手は出家僧であり、一般の在家にはどちらかと言うと、相手を言下に否定して教典を紐解き、喝破と折伏なんてしなかったのではありませんか?

 だって在家信徒は経典すらしらす、ひたすら「ありがたい教え」を求めていた訳ですから、そこは日蓮は様々な言葉を駆使して、教え諭したのでは無いでしょうか。

 思うに信者と行者の違いとは何か。この点について少し私なりに考えました。

 信者とは、例えば僧侶とか宗教指導者を崇め、そこに御利益を期待する人達の事であり、そこには宗教の哲学的要素なんてのは求めていません。ひたすら宗教指導者の言葉を信じてすがる事を考え、そこから御利益を得る事を期待する人達です。

 一方、行者とは自分自身の人生を考え、自己を高めるために、常に高みを求めて行動している人達を言うのではありませんか?

 高みを求めるから、最高の教えを求める気質もあり、そこには常に教えに対する謙虚さと思考がついています。日蓮も「我が義破られずば用いじなり」と語った言葉にも、この精神が見て取れます。だから折伏という行為も意味をなしたのかもしれません。

 そうなると今の創価学会で活動している人達とは「信者」なのか「行者」なのか、自ずと答えは見えてくるでしょう。彼らの大半は「宿命転換」とか「人間革命」とかいう言葉を語りはしますが、実は人生の奥深くを探求しているわけではなく、単に御利益を求めているだけなのです。だから組織から離れられもしませんし、永遠の指導者と団体が定めた人物の、底の浅い「綺麗事の箴言」に振り回されているのでしょう。

 そう、彼らは信者なのです。
 だから必要なのは「折伏」ではなく、気付きの言葉を教える事なのです。そしてその為には「摂受」の姿勢なのです。

 そもそも思考が、創価学会の信濃町に「ジャック」されている様な人達であり、だから対話もママなりません。だから無理強いして、創価学会から引き剥がすことは難しく、一つ間違えば、相手の心を大きく傷つけ、場合によっては精神を破壊してしまう可能性もあるのです。

 だから大事で無い人であれば、先行き気付くかもしれない言葉を教えてあげて、あとは距離を保つか、もし相手が貴方にとって大事な人であれば、根気よく対話をし続けるしか無いと思いますよ。

 創価学会の活動家達は、行者ではなく信者なのですからね。





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