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janpal

人生これ,雑記.

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平和

2007-03-13 03:46:46 | 日記・エッセイ・コラム

子供のころ,友達と「もし戦争になったら,超音速爆撃機(最新兵器)と竹槍のどっちを選ぶか」について言い合ったことがあった.友人は最新兵器,わたしは竹槍ということで議論した.

「最新兵器」だって,そう現実的な選択とも限らないし,それ自体はよりカッコいいかもしれないが単に兵器なのだし,竹槍なら逆に戦争を避けてうまいことやれるかもしれないといったところがわたしの主張の要旨となった.

最近,きな臭い感じが,バブルがはじけたせいなのか,でてきてるらしいことをきくようになったが,率直にいって二番煎じで話題便乗的なやり口にうぬぼれてるようにしかみえない.過剰流動性もバブルもなりゆきまかせの連中に何の実質があるのだろうか.大体,逆知恵的なこと言ってる鈍愚な政治家が今でも政治家ぶり気取れるところがそもそもまじめな話でないという証拠じゃないのかなとおもう.

そういうムードの枠内で主題化する意味があるのだろうか.


Top of the world

2007-03-09 03:46:25 | 日記・エッセイ・コラム

マイ・マイク(3000円ほどのを)を買ったので,あれこれ歌っているうちに,カーペンターズの`Top of the world'を歌ってみたくなった.ネットで歌詞をみつけて調子だけまねて歌っていると、国語の問題で時折みかけるものだった安部公房の「枯れ尾花の思想」(正しくは「思想」ではなく「時代」のようです.記憶違いでした)が連想された.内容より‘枯れ尾花’という言葉に触発された.

「風がわたしの名を告げ,・・・・,木の葉が木漏れ日の息吹に触れるとき,わたしの中に見たこともない意味が宿った.」(勝手な意訳)


税制

2007-03-02 16:37:49 | 日記・エッセイ・コラム

「税制を歪める」という表現を時折聞く.「税」という制度が恣意的に運用されるということなのか,アダムスミスだったかの「税の三原則」に照らして乖離してきているということなのか,手のこんだ政局演出なのか.歪むといえば、もともと歪んでいるのだから、歪みに便乗して都合のいい道具にしているということなのか.公共事業の青田刈り談合で大手や地方の有力事業者に便宜供与して選挙よろしくみたいな、むかしからあることの税政版なのか.財政も二重制度のようになって、日本の民間企業の政治離れとか、行政の民間化とか、捻じれた状況でエールぽい表現になった訳だし.税金で風俗ビル買い占めて遊興しているところもあるとかないとか.そういう意味では、財政学も今が旬かもしれないが.


本の整理

2007-01-20 15:55:41 | 日記・エッセイ・コラム

 最近,ほとんど人文科学や社会科学系の本を読んでない.隣市の「CD,DVD,古本」店で,ぶらっと物色していたら, 昔読んだ本が100円で売られていたので,数冊買って帰った.

 中公文庫の「世界の歴史」シリーズの一冊『ギリシャとローマ』は,高校生のとき,シリーズ全巻取り寄せて,物語風の歴史書として読んだことがあったのだけど,風邪気味でボ~ッとした気分の中,読み返してみた.

500ページ程の本だから,細かいこと言ってたら限りがないので,2,3の自分なりの感想を述べたいと思う.

まず,主に地中海世界を舞台とする古代世界の展開と崩壊に至るプロット.エジプトなどの大公共事業的文明国家と異なった都市国家(または,機械的なムラを単位とする)文明.また,近代の資本主義世界の成立後の商業ではなく,ときおり,何か媒介(触媒)として文脈の中で出てくる古代の商業.例えば,デリバティブで有名になった古代の自然哲学者ターレスのオリーブの絞り機の話や,学問成立の前提条件としての閑暇の基盤となった商業の古代的性格など.そういう世界の中での(職業,「資本主義の」)「精神」成立の不成立性など.もちろん,時代的に隔絶した世界と現代とは違うことも多いのだろうけど,やはり現代社会の問題に通じるようなものを感じる部分も多いと思う.古代史研究における言語の役割.特に,日本(史)における言語の役割との対照.日本のある意味の「文化、文明的」なデベロップメントが断片的で,しかも暗黙知的な長いスパンで見ないと(幕末,明治維新の頃の国学のような)なかなか見えてこないのと対照的に(*),表立った重要性,有効性を持っている所など.歴史学自体が,周辺諸科学とのいわば相互作用によっていること,歴史学は開いた学問であることなど.

(*)蛇足ながら,「奈良本史学」での幕末の水戸学派の意味とかを思い浮かべて,ディベロップメントの「暗黙知的次元」という表現で見たらどうだろうということで対比してみました.


世界の中の私

2006-12-31 05:08:07 | 日記・エッセイ・コラム

風景の中を歩いていると,自分が存在するというだけで世界が開けていくように思う時がある.私という存在と世界が二分化されて了解されるのが通常の考え方のように思い込んでしまうこともあるが,私自身が存在するというだけで,初めがあり終りがあるように思う時がある.私自身が存在するだけで,或る何かが展開していくように思う時がある.「間」という言葉がある.「世界内存在」という言葉もある.「記憶」という言葉もある.或いは「解析」という言葉はどうなのだろう.この言葉となると何やら何かありそうな感じも受けるが,勘違いかもしれない.ポアンカレの言葉を引用すれば「見よ.而して正しく見よ」というところだろうか.