概要
国道283バイパス青笹地内、西側の山野、早瀬川沿いの西岸の山野にある。
東、南は崖状の斜面、北側は山野続き、西側は隣接山野とを隔てる谷となっている。
北側に主郭、南東側山野に二の郭を持つ構造となっている。
南西側の谷沿いの林道(登り)を進むと、左右両側に尾根の狭間の広めの窪地にでる。
細い道が付けられており、その登り道を進むと、右側(東)斜面に3段の階段状の平場が確認できる。
上りの行き当たりには虎口と思しき形状の場所に行きつく、その場所の東側、北を向いた斜面には空堀があり、その上部は削平された南北約35メートル、東西約25メートルの平場がある。
この部分は二の郭(東郭)で東斜面は断崖で一部竪堀と思しき形状が認められるも崖崩れ等の跡の可能性もある。
東郭の西側斜面はL字型の形状で3段の平場が敷設されている。
東郭から北方向は一段高く、斜面には空堀跡、西側には2段の帯郭が北側まで続いている。
この部分で一番高い場所は塚と考察されており、こんもりとした土盛といった雰囲気である。
一番上の帯郭は、そのまま道として利用され北側山野に続いている。
北側のさらに一番高い場所には高圧線の鉄塔が立てられ、山頂は正方形状に削平されている。
かつての主郭をさらに削平したものと思われる。
下部には2段程度の平場が展開されている。
主郭、北西側は堀切一重が確認され、西方向へ下り、途中で帯郭と合流している。
帯郭が林道と利用されたり、鉄塔敷設により山野が削平されたりと一部工事による破壊も見られますが、よく原型をとどめた館跡でもあります。
大手口・・・虎口方向
東部分の空堀跡
東郭、西斜面の階段状平場
山野中央部の塚・・・北側から
中央部西側の帯郭
主郭
北側の堀切
北側の空堀
伝承と中下菊池一族
館主を菊池兵庫介成景といわれる。
菊池成景は遠野阿曽沼氏関連や遠野市史でも若干記述があり、かつては阿曽沼氏の横田城、宇夫方氏の綾織谷地館、そして菊池成景の青笹臼館が相呼応して遠野郷の平野部分に君臨し、臼館に関しては気仙郡から遠野城下へ至る道筋の浜峠部分に関連する重要拠点で、臼館は隆盛を極めたと考察されている。
やがて南側の上郷板沢方面へ開拓の触手を広げたといった内容でもある。
さて、近年、遠野菊池氏に関するひとつの系図が取り上げられ、少しですが脚光を浴びている。
中下菊池家系図である。
遠野菊池氏に関しては小友の新谷菊池系図が有名であるが、この中下菊池家系図は青笹の菊池氏に関わる内容でもある。
臼館は中下菊池惣領家の居館であったと伝えられ、気仙郡から4代目菊池重隆が遠野青笹に来住したと伝えられる。
その後、15代までの居館で約百数十年続いたとされる。(~天正5年)1577
菊池成景は十代菊池盛隆時代の陣代(後見役)として登場、叔父ともいわれ37年間にわたって陣代として力を振るったと記されている。
しかし、寛正5、6年(1464・1465)二度にわたって青笹の統帥権と惣領権をめぐる戦いとなり最後は兵庫介成景は敗れ、討死にと記されている。
遠野物語拾遺(戦場・267話)では、臼館と飯豊の館との戦いのことが語られているが、地元伝承では、花館と臼館の戦いが語られ、花館は現青笹町の北東、糠前地区の安戸(沢田)という集落後方の山野に残される山城で飯豊は隣接の現土淵町飯豊であり、花館は飯豊の館であったと思われる。
最後は花館側が勝利したと伝えられるも、菊池家系図では、菊池惣領家15代菊池長元の時代、菊池成景の末裔、大弥太成武(菊池成武)の謀略と攻撃で臼館を放棄、鳥越砦に居を移すも、ここも放棄して統帥権を失ったとされる。
遠野領主阿曽沼氏も巻き込んだ菊池一族同士の争乱、おそらく臼館は菊池成景に始まる一族の居館で惣領家は花館が居館であったと推測してますが、遠野でも菊池姓が繁華な青笹地域にあって臼館近辺の集落での菊池姓は極少ない。
糠前地区、飯豊地区は菊池姓が繁華な地域でもあり、古の菊池一族の攻防に何かしら関連もありそうな思いがいたします。
『遠野市史』には、この館跡について合戦の伝承があるとは書いてありますが、具体的には書いてないのですよね。今回の記事でその一旦を知ることができて嬉しいです。
菊池成景に関わる館だと思ってましたが、別説で菊池惣領家の館とのことで、少し整理が必要でもあります。
成景一族の館が臼館という考え方なのですが、合戦の伝承やら家系図、成景の登場等、紐解けば繋がる思いではあります。
少し面白い館なので、いつか機会があったら是非にご案内したいです。
無論、熊のお休み中に・・・笑