東西300m・南北150m
日本城郭大系2掲載の縄張図
概要
奥州市江刺区梁川、中田集落の東の山野に位置している。
麓には館跡を示す標柱が立っている。
山野は東から西に傾斜する形状であるが、山頂近くを削平して平場と成し、この部分が主郭と思われ、奥部は一段の帯郭を配して尾根を一重の堀切で区切り、さらに複雑な堀切を施し、山野続きの山頂方面へは土橋で連結されている。
北側は傾斜地には一重の空堀及び途中から枝分かれする空堀が西~南方面に下っている。
南側の傾斜地には3段の階段状平場が展開されており、北側の空堀と南斜面に囲まれた内郭には6段の帯郭が配され、帯郭から空堀と連結がなされ、その構造は複雑かつかなり大がかりな土木工事の跡が見られる。
日本城郭大系では、完成をみないまま館主一族が移動といった見解を示しておりますが、堀切や土塁が途中で切断されたり不完全な遺構も確認ということで、そのような見解となったと推測されますが、全体的には、ほぼ完全に近い姿であると判断してもよさそうである。
なお、遠野市宮守町の鱒沢館に酷似しているとの内容もありますが、内郭の帯郭、堀切の複雑な形状等、確かに似た造りと思える。
ただし、規模に関しては鱒沢館の比ではないことを申し添えますが、それでも江刺区梁川地区では最大の山城で江刺氏北の重要拠点のひとつであるのは間違いない構えでもある。
南下部の平場
北~西の空堀跡
東~北側の空堀跡(堀切)
堀切と土橋
北側上部の空堀跡
主郭背部、東部分の段差
歴史等
館主を江刺菊池一族、菊池次郎親孝と伝えられる。
地元伝承によると菊池親孝は天正年間に館の完成をみないまま、この地を去ったとしているが別説では奥州仕置により主家江刺氏が没落すると天正18年 葛西大崎一党として和渕の戦いに赴き討死ともいわれる。
江刺区は菊池一族繁華な土地柄で、遠野をはじめ和賀郡内等、他地域に菊池一族が葛西氏没落後に移動という見解が示されることから高間館の菊池氏も奥州仕置後に他地域に移動といった史実があったものと推測される。
それにしてもまだ「奥州市」というのが慣れないで変な感じがします。江刺市のほうがしっくりきます。
江刺が菊池氏関係では本家本元のようにいわれております。
人口に対する菊池さんの比率は遠野の方が多いですが、単純に数えると江刺が一番多いです。
奥州市・・・ようやく当方としては慣れました・・・笑