番外編といっても、このブログの前身「パン屋の気持ち」や「奮闘記」でも書いてきたことであるが、今回 原稿用紙8枚迄という制限が もし 10枚だとしたら、書き加えておきたかったことがある。
一つは、米国駐在は 家族 中でも娘たちに大変な負担を強いていたという事。 見た目、結果的には 長女と次女は 現地で身に着けた堪能な英語力も活かせ 大学の英語学科にすんなり入学できた。
ただ、彼女らは 小学校時代の5年余を 週に一度 半日だけの「日本語補習校」で 国語と算数を習っただけだったし、当然 通訳も居ない 現地の学校での最初の一年間くらいは、授業が全く解らず、っていう言うか 言葉が全く解らないまま 毎日その大半を「塗り絵」を描かせれていたのだ。 その他にも 辛い思いを何度も経験したらしい。ニューヨークやロスとは違い オハイオ州という中西部での 初めて日本人を迎えた学校に通う駐在員家族の実態だ。それでも、母娘は 弱音も吐かず 愚痴らず頑張った。 更には 帰国後も その当初は社会科も理科も全く知識がなく、ここでもチンプンカンプンの時を送ったようだ。中学でも 苦労したに違いない。
今 彼女らは「良い思い出だった、英語も身につけられたし」とは言ってくれるが、この責任だけは 生涯 忘れずにいるつもりだ。
もう一件は、女房自身の パン屋奮闘記。開業3か月過ぎくらいの ある夜、疲れた顔の女房と日帰り温泉にでもと出掛けた折り、どうやら彼女は 湯船から出た後 意識を無くして転倒した。病院に駆け込むものの 顔にも傷と腫れを残してしまった。 裸で倒れたので、では誰が服を着せたのか 本人は全く記憶がないけれど 自分で着たはずと言い張る、いずれにしても謎だ、という冗談話で 済ませてはいるが、 次の日も 働いた彼女の あの頃の 心労は想像を絶するものだったんだろう。
一つは、米国駐在は 家族 中でも娘たちに大変な負担を強いていたという事。 見た目、結果的には 長女と次女は 現地で身に着けた堪能な英語力も活かせ 大学の英語学科にすんなり入学できた。
ただ、彼女らは 小学校時代の5年余を 週に一度 半日だけの「日本語補習校」で 国語と算数を習っただけだったし、当然 通訳も居ない 現地の学校での最初の一年間くらいは、授業が全く解らず、っていう言うか 言葉が全く解らないまま 毎日その大半を「塗り絵」を描かせれていたのだ。 その他にも 辛い思いを何度も経験したらしい。ニューヨークやロスとは違い オハイオ州という中西部での 初めて日本人を迎えた学校に通う駐在員家族の実態だ。それでも、母娘は 弱音も吐かず 愚痴らず頑張った。 更には 帰国後も その当初は社会科も理科も全く知識がなく、ここでもチンプンカンプンの時を送ったようだ。中学でも 苦労したに違いない。
今 彼女らは「良い思い出だった、英語も身につけられたし」とは言ってくれるが、この責任だけは 生涯 忘れずにいるつもりだ。
もう一件は、女房自身の パン屋奮闘記。開業3か月過ぎくらいの ある夜、疲れた顔の女房と日帰り温泉にでもと出掛けた折り、どうやら彼女は 湯船から出た後 意識を無くして転倒した。病院に駆け込むものの 顔にも傷と腫れを残してしまった。 裸で倒れたので、では誰が服を着せたのか 本人は全く記憶がないけれど 自分で着たはずと言い張る、いずれにしても謎だ、という冗談話で 済ませてはいるが、 次の日も 働いた彼女の あの頃の 心労は想像を絶するものだったんだろう。
PS; 米国駐在は、かつて海外で仕事が出来れば という20才頃の 夢の一つとして書いた。そう語っている、が 知っての通り立ち上げメンバー5名の中のオレ以外は、当時も 海外駐在希望者の中から選ばれた。英語力も多少はある。オレは違う。海外派遣を希望したことなどない。英語は苦手、ただ お世話になった上司からの ある一言で説得され 大冒険のつもりで引き受けたものだった。
パン屋の奮闘記は 別のところで綴っている。そこでは自分のことが中心だが、もう一人 すぐ傍に 奮闘した人がいたという事も 書いておかねば と 思う。
(今夜はここまで・・・・この続きは いつか 書くつもり)