エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

「白く塗った墓」(マタイ23:27)

2010-08-30 | マタイによる福音書
 次は、「杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちている」(マタイ23:25)ことを呪います。「まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる」(マタイ23:26)と言うのです。
 外というのは、律法を表向きちゃんと守っている、ということでしょう。内というのは、その精神や魂の部分のことでしょう。しかし、内面だけのことを言っているのではないようです。「強欲」というのは、無理矢理奪い取る行いに使われる言葉であるために、ただの貪欲とは違うものでしょう。これはショックな指摘です。律法を守っていればよし、とするときに、内面を問うただけではなく、その内面からくる実際的な行為も非難されているのですから。たしかに、たんに道徳的な心理的呵責などという次元ではないわけです。改宗者をつくろうと駆け回り、弱い立場の人々を虐げることをしているわけで、実のところ律法の精神とは反対のことを実際に行っている、という点を、私たちは自分のすることに関しては、見事に見落としてしまうものです。
 まずそのことに気づいて直すならば、自ずから行為も変わっていくことだろう、とイエスは指摘します。
 このようなことを、もう一つ続けます。「白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」(マタイ23:27-28)というのです。「白く塗った」というのは、石灰で上塗りをした、という意味です。「汚れ」は律法の規定による汚れの概念を使って説明していると言えるでしょう。これは比較的分かりやすいイメージの比喩ではないでしょうか。
 一見、正しく律法を守っているような行いをしている中で、その中に何があるのか、ということが問われています。マタイはもちろん、律法学者やファリサイ派を念頭に攻撃しているのですが、はたして私たちはイエスの口からそのように言われたら、どのように言葉を返すことができるでしょうか。考えてみるのも必要なことかもしれません。
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