また、「行く」という語が先頭に立ち、強調されています。まず弟子たちは、行かなければなりません。まず行くのです。それから、すべての民族をイエスの弟子とすべく働くのです。弟子というのは、イエスとそれに従う者との関係を強く示す語です。この文脈では、もちろん十二弟子に限定したものを指しているのではありません。さらにマタイの気持ちを汲んで言えば、すでにユダヤ教とは分離独立したキリスト教の指導者たちが伝える、キリストの教えに従って生きよ、ということですから、このマタイの共同体に従順に属していくことが、弟子としての言葉に相応しく生きていくことを表しているに違いありません。
これを、「大宣教命令」だとして、教会は、福音を伝えることへの主の指令と受けとめてきました。歴史的に、そのことがあるゆえに、宣教師が世界各地へ繰り出していったことになります。それは人間の望みや、たんなる教派の拡大といった動機だけでは説明できないことです。また、ユダヤ教が民俗宗教に留まり、あくまでも枠内での伝統遵守と選民主義に貫かれた、どこか閉鎖的なあり方を続けていくのとは対照的に、キリスト教が世界宗教と呼ばれるほどに、外部に進出拡大していったことの大きな理由になっているのも事実です。はっきりと、異教徒もすべて含む形で、宣教せよ、出て行け、と命じられているからです。
これを、「大宣教命令」だとして、教会は、福音を伝えることへの主の指令と受けとめてきました。歴史的に、そのことがあるゆえに、宣教師が世界各地へ繰り出していったことになります。それは人間の望みや、たんなる教派の拡大といった動機だけでは説明できないことです。また、ユダヤ教が民俗宗教に留まり、あくまでも枠内での伝統遵守と選民主義に貫かれた、どこか閉鎖的なあり方を続けていくのとは対照的に、キリスト教が世界宗教と呼ばれるほどに、外部に進出拡大していったことの大きな理由になっているのも事実です。はっきりと、異教徒もすべて含む形で、宣教せよ、出て行け、と命じられているからです。