マタイ13:1-9
「その日」とはいつでしょう。直前にマタイが並べている、神のみこころを行う者こそ兄弟姉妹だと話をした日なのでしょうか。それとも、これから持ち出す出来事のあった日のことでしょうか。「家を出」たことが記されていますが、どこの家なのでしょうか。これらの背景はぼやけています。
ただ、このたとえが語られた場面は、やけに生き生きと描かれています。場所は湖のほとり。大勢の群衆が集まってくる。イエスは湖上の舟に乗る。このとき、イエスは腰を下ろし、群衆は岸辺で立っていました。イエスは、低いところから話をしたのでした。まるでイエス自身が、このたとえの中で蒔かれた種であるかのように。
この後弟子たちに対して、このたとえを説き明かすという、たとえ話としては特異な展開が描かれていますが、おそらくイエス自身の詳しい解説があった記録をマタイが得た、貴重なケースであったのでしょう。しかし今回は、その説き明かしを頼らずに、たとえに注目することにします。
登場するのは農民。おそらく群衆の多くは農民であったのでしょう。そうでなくても、誰もが身近に感じるものとして、ありふれた風景であったことは確かです。生活感覚に合致した話がイエスの口から出ました。それがたとえの本領です。その本意の理解がどうであれ、誰もが耳を傾ける性質のものでした。
種は大雑把に蒔かれます。そしてそれが神のことばであるということは、説き明かしによってこそ明らかになりますが、聴く者はうっすら感じたのではないでしょうか。神のことばは、蒔かれる場所を選びません。教会の中でだけ語られるというものであるはずがないのです。となれば、道端・石だらけの地・茨の間という、いのちの育たない難所は、教会の外や世であるとは限りません。教会内であっても、心が塞がれて見えなくなっている人々にとっては、これらのたとえはずばりと当てはまっているのです。
教会では毎週神のことばが開かれます。たっぷりと説教がなされます。しかし、大量に神のことばが語られ、これが神のことばですと示されてそれを耳にしているとはいっても、それだけで、そこに聞いている者が神のしもべとして相応しくなるわけではないのです。
良い土地に落ちて実を結ぶというのは、偶々それが良い土地であったというよりも、誰でも良い土地となりうることを受けとめたいものです。その人の心の一変次第では、いつからでも、どこからでも、良い土地に変わることができるのだ、と。
「その日」は、このたとえを聴いた私たちの「いま」を指していると理解してみましょう。神のことばが、私の中で大きくなっていくのを、覚えないでしょうか。そのような「耳のある者」であるように、と私たちは、いまイエスにあたたかく見つめられているのです。