エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

「しかし、疑う者もいた」(マタイ28:17)

2010-12-24 | マタイによる福音書
 弟子たちは、墓にいないイエスの事実を目撃したことで、信仰を確立することはできなかったものと思われます。大切なことは、「イエスに会い、ひれ伏」(マタイ28:17)すことです。会うというのは、きわめて日常的な「見る」という語ではありますが、ここでは確かに会ったのです。ひれ伏すというのは、やはりその実際の行動が重要なのではなくて、礼拝していることをいいます。イエスに出会い、礼拝すること。イエスを崇めること。マタイは究極のところ、そこに救いを見出します。
 そこには「しかし、疑う者もいた」(マタイ28:17)と記されます。何かの資料にあったのかもしれませんが、弟子たちを貶めたくないマタイは、これを詳述することはありませんでした。マタイを読んでいたという確実性のないヨハネが、トマスの疑いのありさまを描いているところをみると、どうやら、弟子たちの中に疑いを挟んだ者がいたことは間違いないようです。マタイのこの疑いを示す言葉は、疑惑や疑念というよりも、二つのものの間をどちらにするべきか迷っているという様子を示していると言われています。それは、読者の姿です。ここまで福音書を読んできた読者は、はたしてイエスを信じるのか、イエスを信じて教会のバプテスマを受けて、教会に従い生きようとするのか、そのあたりの問いかけに対して、どうしようかと迷っている者に対して、ここにあなたが描かれているのだ、というふうに思わせる効果をもっているようにも見えるのです。
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