エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

敵を愛することなどできないが

2024-08-04 | メッセージ

マタイ5:43-48 
 
「愛敵」などという言葉は、キリスト教界独自のものでしょう。変換もしてくれません。短く言えば言いやすく、用語として簡単に扱えるような気がするかもしれません。しかし看板だけ出して、なかなかそうはいかないよね、などと苦笑いすることで、コミュニケーションを果たしていはしないでしょうか。
 
内心やばいと思いつつ、互いに同じだよね、と頷き合い安心するのです。だが、敵を愛するなど、もちろんできることではありません。それでも、これはキリストの命令です。極端な命令が多いとはいえ、キリスト者にとり、これは聖典であり命の書です。それなのに「敵を憎め」とは、聖書に書かれていないと強調し、笑い合うようなこともしています。
 
これが私たちの日常ではないでしょうか。確かに聖書は、憎めなどと命じているようには言っていません。人間が聖書を、人間の理屈でつなごうとしている側面はあります。イエスがもたらす新しい教えは、新約聖書の「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言っているところだけです。
 
教会の中にはあなたの居場所があります、と慰め、仲良くしましょうと声をかけ、適切な批判を以て教会を良くしようと提言する者を排除し、和を乱すからと切ってゆくような教会運営を、イエスが果たして良しとするのかどうか、疑問があります。口では、多様性を大切にします、などと世間に聞こえのよいことを口にしながら、そうするわけです。
 
敵を愛する、というその愛が、具体的にどのようなものであるのかを、イエスは簡単にまとめているわけではありません。イエスの生き方、あるいはいっそ死に方と呼んだ方がよいでしょうが、そのすべてがそうであった、としか言いようがありません。イエスは敵をその場で非難したり、憎んだりしたのではありませんでした。
 
「私に従いなさい」ということの一つが、この命令であるのかもしれません。「天の父が完全であるように、完全なものとなりなさい」とここで言っているのは、それだけ聞くと厳しいものですが、なにも「神になれ」と言っているわけではありません。神の性質としての「完全さ」ではないけれども、ひたすら真っ直ぐな信仰でありたいのでは。


しかし、私は言っておく。
敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

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