また、本来ユダヤ教の必要条件である「割礼」ではなく、「洗礼」が置かれている点にも注目すべきです。割礼という、ユダヤ教の規定ではない、新たなマークが要求されていたのでしょうか。イエスの教えに、この割礼ということがもはや意味をなさなくなっていたことに、気づいたのでしょうか。それとも、割礼は当然の前提としてありながら、その上になお、水に死ぬことを一つの儀礼として確立していくことが、マタイ教会のアイデンティティとなると見なされたのでしょうか。
パウロはすでに、この割礼の有無で問題を起こしています。マタイもそれを知らないことはないと思われます。あるいはまた、パウロの問題をすでに解決したものとして、割礼は完全にスルーしているということになるのでしょうか。
ところで、命じておいたことは、守らなければなりません。ここにも、マタイ教会の権威が感じられます。マタイのグループに、この天においてまた地の上での権威が授けられていることになるからです。このことを、ペトロに結びつけていけば、当然カトリック教会の教義にまっすぐにつながっていきます。マタイの福音書が重視される所以です。
パウロはすでに、この割礼の有無で問題を起こしています。マタイもそれを知らないことはないと思われます。あるいはまた、パウロの問題をすでに解決したものとして、割礼は完全にスルーしているということになるのでしょうか。
ところで、命じておいたことは、守らなければなりません。ここにも、マタイ教会の権威が感じられます。マタイのグループに、この天においてまた地の上での権威が授けられていることになるからです。このことを、ペトロに結びつけていけば、当然カトリック教会の教義にまっすぐにつながっていきます。マタイの福音書が重視される所以です。