それからイエスの言葉は、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28:19-20)と続きます。洗礼を授けるときに今でも使うフレーズ「父と子と聖霊の名によって」がここに根拠をもつことになるわけですが、「名によって」は、原文では、生き生きと運動するニュアンスがわざわざ用いられています。「名において」の原語が、さらに動きを包含する感覚で使われているのです。信じた人々に洗礼を施せ、そうして父と子と聖霊の名の中へと加わらせるのだ、という感覚だと思います。さらに、この洗礼というのは、水に浸すということであり、溺死させるというほどの力をもつ語ですから、これまでの自分に死んでしまい、清められ、新たにこの父と子と聖霊との名の交わりの中へ加わっていくようにせよ、というほどの迫力をもってこの語はぶつけられていることになるはずです。でなければ、マタイがいよいよ最後の最後にとっておきのイエスの言葉として配置するはずがありませんから。