イエスはまた、かつての預言にあったように、「「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である」(マタイ1:23)というその名のごとく、今「いつもあなたがたと共にいる」というフレーズですべての言葉を結びました。復活したイエスは、その後どうなったのかという点について、ルカはその福音書並びに使徒言行録の中でひとつの説明を完遂していますが、マタイはそのような物語は展開しません。むしろ、復活したイエスがそのままずっといつも私たちと共にいるかのようです。マタイの教会においても、そのようにずっとイエスがいるという意味をもっていたのかもしれません。見えはしないし、触ることもできない。けれども、イエスはたしかに、私たちと共にいるのです。
この表現は、「あなたがたと共に」というフレーズを挟んで、「私は・ある」の語が配置されています。ヨハネの福音書においてこれはこよなく意味深い大きな言葉として意識されなければならなかったのですが、マタイではそれほどではないのでしょうか。いえ、やはりそれは、ギリシア語であるとはいえ、神の御名としての響きを、もつであろうと思われます。律法にうるさいマタイであればなおさらです。マタイにとっては、イエスに従い教会に属するすべての人と共に、まさに生きた神が存在するのです。
この表現は、「あなたがたと共に」というフレーズを挟んで、「私は・ある」の語が配置されています。ヨハネの福音書においてこれはこよなく意味深い大きな言葉として意識されなければならなかったのですが、マタイではそれほどではないのでしょうか。いえ、やはりそれは、ギリシア語であるとはいえ、神の御名としての響きを、もつであろうと思われます。律法にうるさいマタイであればなおさらです。マタイにとっては、イエスに従い教会に属するすべての人と共に、まさに生きた神が存在するのです。