エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

「ものの見えない案内人」(マタイ23:24)

2010-08-29 | マタイによる福音書
 呪いの言葉を掲げてなお、「薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである」(マタイ23:23)と事例を挙げます。依然として、当時の人々に具体的によく分かる律法規定を細かく示して、律法学者たちが偉そうにこれが神の救いの律法だと説明している事柄がいかに神から遠いことであるのか、を暴露しようとしています。ここはルカにも並行記事がありますが、同じ文章だとは言えない面があります。
 香料の名を並べ、それらに税金をかけていた様が明らかにされます。贅沢品と言えば贅沢品なのでしょう。しかし、イエスにしてみれば、そんな細かなことに力を注ぐよりは、もっと重要なことがあるはずだというのです。それが「正義、慈悲、誠実」です。マタイが重視する律法の真髄はここにあります。だから、マタイはファリサイ派などと同じく律法を尊重するのですが、その解釈が全く違うということになります。ほんとうの律法というのは、あなたたちの考えとは違うのだ、ということです。それは、イエスのたとえや癒しなどの救いの業の事例にも、よく反映されています。
 マタイは独自に「もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが」(マタイ23:23)と付け加えます。ここが律法重視のマタイらしい但し書きです。ですからどうかすると、マタイもまたファリサイ派と同じではないのか、と目に映ることがあります。それは私たちもまた同じです。私たちも、ファリサイ派は敵だ、ダメだ、と非難しているうちに、実は自分こそそのファリサイ派の先頭に立っている者である、ということになっているかもしれません。自分の心を調べるのは、人間には実に難しいことなのです。
 その続きとして「ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる」(マタイ23:24)と、ちょっとユニークな表現もイエスは用います。7章にあった、目の中の梁あるいは丸太というあたりとつながるものでしょう。
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