イザヤ65:17-23
「狼と小羊は共に草を食み/獅子は牛のようにわらを食べ」(65:25)のあたりの言葉が美しく、印象的です。その美しい情景を待ち、逸る気持ちを抑えられず、その直前のところは読み急いでしまいそうです。今回は、そこにだけ光を当てることにします。そこに見える「平和」とは、何でしょうか。まずは「見よ」から始まっています。
「私は新しい天と新しい地を創造する」という壮大な幻が示されます。黙示録が、この言葉で始まる場面でおよそ終わるということを思い起こします。あの幻は、すでにイザヤ書で描かれていたのです。いえ、むしろ黙示録こそ、イザヤ書を踏まえている、と言うべきです。黙示録を読むときに、イザヤ書が元だ、と重ねて見て然るべきではないでしょうか。
イザヤがそれとなくもっていたイメージが、新約の末尾、預言の最後で、いよいよ最終的な新天地として紹介されるのです。しかし今は、本家のイザヤ書に集中します。これまでのことはもう関係がないと言います。過ぎ去ったことは、「心に上ることもない」のです。神がこの世界を創造し、いままた新たに天地を創造することを約束しました。
新しいエルサレムです。ここで主が本当にそう言ったのでしょうか。人間の感情や感覚を当てはめて表現した言葉の背後にある、神の本当の考えというものについては、分かったぞ、などと言ってしまいたくないのです。ここでイザヤが記し、私たちが受け止めたのは、神の計画の全貌の、ほんの一部であるような気がしてなりません。
それは、レイヤーのようなものです。デジタル画像のレイヤーとは、ひとつの絵を幾つかの層に分け、一つひとつの絵だけでは完成せず、何のことだか不明瞭なのですが、すべてを重ねると、初めてある絵が完成する、というものです。聖書の言葉ですら、そしてそれを受け止めた私たちの理解ですら、1枚のレイヤーに過ぎないと思うのです。
主はイスラエルの「民を楽しみとする」と繰り返します。新しいエルサレムを人間に「楽しめ」と言うにも拘わらず、そこに集う民を「楽しみとする」と主が言うのです。その様が具体的にここに描かれています。もう再び「泣き声や叫び声」がそこから聞かれることはない、と言います。「百歳で死ぬ」というのはひとつの幸せの姿でしょうか。
新約の私たちからすれば、百歳でも死ぬとは言わないでしょう。永遠の命が与えられるのですから。しかしイザヤからすれば、地上の国になぞらえてしか理解できないことでした。家を建て、ぶどうの実を食す、そんなイメージです。イザヤの前には、大帝国があって、その攻撃を受け、地上の国は滅ぼされてしまったという現実がありました。
もう、そんな目に遭うことはない、という主の約束です。それがイザヤにはうれしくて仕方がなかったのだと思います。イザヤが描く幻は、キリストを通してもたらされた神の国の全貌を提示することはできませんでした。しかし私たちはそれを、より完全に少し近い姿で捉えることが許されています。もう1枚レイヤーが重なって見えているのです。
見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。
先にあったことが思い出されることはなく
心に上ることもない。(イザヤ65:17)