日本古靴資料館

日本の靴の歴史についてのデータベースですが、まだ未完成ですので気長にお待ちください。

明治時代の流行靴

2017-05-27 21:25:22 | 明治時代の靴業界
日本人の間に洋服が普及するようになったのは江戸末期、黒船渡来以後のことで、それと同時に洋靴が用いられるようになりました。

当時靴は「窮屈袋」や「きう靴」と呼ばれており、そのほとんどは輸入品でした。
明治3(1870)年に西村勝三が伊勢勝造靴場を開設して以後、国産靴は年々普及していきましたが、外国人から見ると酷いものであったらしく、明治11(1878)年東京大学に招かれた動物学者のエドワード・モースの紀行文「日本その日その日」には次のように書いています。

「日本人は我々の服装を使用するのに、帽子はうまい具合にかぶり、また衣服も相当に着こなす。しかし日本の靴屋さんは、見たところ靴らしく思われる物は作れるが、まだまだ踵を固くする技術をのみこんでいない。靴を見ることは稀であるが、見る靴は大抵踵のところが曲がっている。ある男は、堂々たる夜会服を着て、ズボンを膝までくる長靴の中へ押し込んでいたのを見て、私はこうまでして洋服を着ねばならない日本人にたいして大いに同情した…」

明治前期のデザインは、七つの部分がはぎ合わされた「七つはぎ」という深靴が大礼服用に作られました。

甲材料は高級品向けとしてフランス革、軍靴にはヨーロッパの多脂革、一般用にはメリケン革、南京革が用いられました。
この当時の靴は爪先芯が無かったので、爪先は低く尖っており、爪先芯の代わりに大塚岩次郎が考案した「鼻まくり」が使われていました。

明治17(1884)年から22(1889)年頃の鹿鳴館時代に入ると、サイドゴアブーツが用いられ、婦人靴はハトメまたはボタンが片側に11個も付いた3cm半位の積革ヒールのブーツが用いられました。

この頃には海軍軍靴が正式制定され、水兵靴が作られました。
一般の靴は爪先の尖ったケント型や四角いもので、飾り革には一文字飾りの他ケン飾りがありました。
明治20(1887)年には内羽根式の短靴やボタンブーツが用いられました。

明治36(1903)年にトモエヤがアメリカから、爪先の盛り上がった木型を輸入して「マッキンレー靴」を発売しました。
当時の靴の小売価格は2円80銭から5円80銭位でした。

明治38(1905)年には編上靴の後ろ革に市革が付けられ、その後41(1908)年にはアキレス腱部の破損を防止し、耐久性をつけるために、二重に月形革が付けられるようになりました。

明治末期には子供に洋服を着せるようになり、子供靴も作られ、頭にリボンを付け、海老茶の袴に靴を履いた女学生の風俗は明治時代から大正末期まで続きました。

北海道初の靴工となった岩井信六

2017-05-27 06:28:57 | 靴業界の偉人
岩井信六は安政4(1857)年、越後長岡藩の武家の五男として生まれました。

明治4(1871)年、14歳のときに上京して築地の伊勢勝造靴場に入り、信六はレマルシャンから製靴技術を学びました。

19歳になった明治9(1876)年、信六は屯田兵によって北海道開拓が始まると聞き、札幌農学校(後の北海道大学)の雇用人として品川から室蘭に船で向かい、9月25日に札幌に到着しました。

信六は札幌農学校の前に建てられたバラックで靴作りを始めました。
当時の客は専ら開拓使庁の高級役人や外国人で、その中には開拓の最高顧問として十ヶ年計画を指導したホーレス・ケブロンや、「青年よ、大志を抱け」の言葉で知られる、札幌農学校の教頭であるクラーク教授、乳牛40頭と羊100頭と共にアメリカから来て酪農王国に一生を賭けたニドウィン・ダンなどがいました。

明治11(1878)年1月、信六は農学校の製靴機械や材料の払い下げを受けて、南三条西二丁目に北海道初の靴店「岩井製靴店(後の岩井信六商店)」を開業します。

明治25(1892)年、信六は札幌区総代人の一人でしたが、総会の席上、市民の声を代表して当時の消防組の風儀が著しく低調である点を力説して、その改革を述べました。
すると同年12月のある夜、消防組の一団百数十名が岩井製靴店を襲い、半鍾を鳴らして暴動にまで発展しました。
この事件は「岩井の焼打ち事件」と呼ばれました。

明治30(1897)年、北海道靴業界の祖、岩井信六は40歳の若さで亡くなりました。
後を継いだ徳太郎が2代目信六を襲名し、博覧会や共進会で数々の賞を受賞する程の名人として活躍しました。

岩井信六商店HP
http://shoes-iwai.com/

日本人に本格的な靴作りを教えた偉人、レマルシャン

2017-05-26 09:02:46 | 靴業界の偉人

明治時代、靴の創生期に日本人にヨーロッパ流の本格的な靴作りを教えた外国人がいました。
その名はF.J.レマルシャン。

レマルシャンは1837年、オランダのメドルボルフで生まれました。
貴族の出身でしたが、少年のときにフランスの叔父の経営する靴工場で靴作りを学びました。

ある時パリで幕府派遣使節の1人と知り合った事を機に、当時23歳のレマルシャンは日本へ向かいましたが、乗った帆前船が波浪で遭難したために、長崎に到着したのは文久3(1863)年、レマルシャンは26歳になっていました。

当初はキリスト教の宣教師として暮らしていましたが、その後横浜に向かい、横浜で靴作りをしていました。
明治3(1870)年6月、レマルシャンは1年契約で高知藩に靴教師として雇われました。
契約終了後の明治4(1871)年5月に横浜に戻り、再び靴屋をしていましたが、翌明治5(1872)年3月、伊勢勝造靴場の西村勝三の必死の懇願により、レマルシャンは伊勢勝に靴教師として招かれました。

当初レマルシャンは西村勝三の誘いに乗り気では無く、最初の契約は半年間で給料は月125ドルでしたが、最終的には3年以上伊勢勝に勤めることになります。

レマルシャンのヨーロッパ流の本格的な靴作りの指導によって、日本の靴作りの技術は飛躍的に上昇し、数々の名人を輩出しました。
主な弟子は
●岩井信六(札幌に北海道初の靴店、岩井製靴店を開業)
●高橋誠治(京橋に高橋靴店を開業、皇室御用達となる、東京靴同業組合初代組長)
●伊東金之助(イトー靴店創業者、レマルシャン独立後も後を追ってレマルシャンの元で働く)

明治8(1875)年、独立して芝田村町に靴店を開業します。
この頃に磯村すてと結婚して日本に帰化して磯村安兵衛の婿養子となって磯村姓を名乗ります。
明治天皇の御料靴を製作したのもこの頃でした。

レマルシャンは学問好きであったらしく、明治12(1879)年、神田淡路町の共立学校(後の開成中学)に42歳で入学しています。

明治15(1882)年に銀座尾張町2丁目5番地に洋風店舗の「レマルシャン製靴所」を新築します。
横浜の舞田橋通りにも支店を出して、社交界の女性達や高級官吏の注文に追われていました。

しかし明治19(1886)年2月1日、レマルシャンは49歳で亡くなりました。
その後明治39(1906)年6月、西村勝三らによって向島にレマルシャンの感謝碑が建てられました。
その碑には
「君は人となり温敦朴質、子弟を率いて懇篤に指導し、諄々として倦むことがなかったので、みなよく成業した。今日わが国に外靴輸入の跡を絶ち、在日外人がみなわが製品を用いるばかりか、わが靴工にして海外で業を営むものも少なくない。これはひとえに君の功の大なるによるものである」
と記されています。

レマルシャンの長男の磯村半次郎は、明治末期から大正時代にかけて靴の名人として有名になり、大正天皇と皇后の御料靴を製作しました。

※レマルシャンの生年は靴産業百年史だと1839年、ニッポン靴物語だと1837年となっていますが、今回はニッポン靴物語の方を採用しました。


レマルシャン自身のスケッチによる銀座のレマルシャン製靴所
レマルシャンの雇入証明書


明治製革の歴史

2017-05-22 13:47:36 | 明治製革

明治40(1907)年4月1日、桜組、東京製皮、大倉組の皮革部門が合併して「日本皮革株式会社」(現ニッピ)が設立されました。
桜組の副支配人だった浦辺襄夫は日本皮革から離れ、桜組の名称を譲り受けて明治40(1907)年6月、「合資会社桜組」を改めて丸ノ内に設立しました(後の桜組工業)。

そして明治44(1911)年10月20日、浦辺襄夫は「明治製革株式会社」を創立し、向島に本社工場を建設しました。

当時の靴業界は底革及び甲革は主にアメリカや欧州から輸入されたものに依存していました。
茶利皮という軍用甲革は国内で鞣されていましたが、一般向けのクローム革はほぼ輸入品で、一般向けの底革はメリケン象皮と称し、ほとんどはアメリカからの輸入品でした(国産の革底は和象皮と呼んでいた)。

浦辺襄夫はメリケン象皮と同品質の靴底革を国内で生産するに当たって、入社したばかりの技師長、福島松男をアメリカへ派遣してリチャード・R・レイを技師として迎えました。

そして明治45(1912)年に「えびす印」、2年後の大正3(1914)年に「ライオン印」として底革を売り出し、ライバルの日本皮革の「鳳凰印」の底革との販売競争によって10年足らずにメリケン象皮を駆逐するに至ります。

大正3(1914)年に起こった第一次世界大戦によってロシア軍から大量発注を受け、皮革・製靴業界は好景気に湧きましたが、4年後の大正7(1918)年、突如ロシア革命が起こり、製造した軍靴の引き取り手が無くなってしまう大事件が起こります。

この事件は皮革・製靴業界に大打撃を与えますが、明治製革はこの難局を突破しようと技師の小沢清三をアメリカに派遣して、新たに高級クローム革の生産を計画します。
渡米した小沢清三はチェコ人技師のフランコイス・A・ベセレーを伴い帰国し、高級クローム革の生産を始めました。

ライオン印クローム革として売り出された国産クローム革は、外国品のクローム革を凌ぐものと大きな反響を呼びました。

ロシア帝国の崩壊によって大損害を受けた明治製革は大正11(1922)年9月、大手町日清生命ビルの3階、永楽クラブで臨時株主総会を行い、社長の浦辺襄夫、重役の鈴木重成、福島松男、宮沢胤男の退任となりました。
この騒動によってクローム革の製造は中止となり、大正13(1924)年4月に福島松男は千代田機械製靴(後のチヨダシューズ)、宮沢胤男は10月に東京スタンダード靴(後のスタンダード靴)を設立しました。

資本金の縮小などによって経営は傾きましたが昭和10(1935)年、日本が北満鉄道を3億円でソ連より買収することになり、その中の2億円は外貨で支払い、1億円は物資で代償しました。
その中の300万円は靴底革を供給することとなり、大倉商事との接戦の結果、明治製革及びスタンダード靴が靴底革を提供することになり、これにより明治製革は経営を立て直すことが出来ました。

戦後の昭和25(1950)年春、日本政府は重要産業17種の代表者をアメリカに送って、戦後の産業復興に資することになり、皮革業界を代表して昭和19(1944)年より明治製革の社長となった宮沢胤男が渡米することになりました。
帰国後、戦時中のアメリカで広まっていたクローム甲革のガラス張り仕上法による甲革の生産を開始、飯田工場は日本初のガラス張り鞣成工場となりました。

平成2(1990)年7月にメルクス株式会社に社名変更をしますが、平成27(2015)年にメルクスは倒産してしまいました。

現在、明治製革の技術は株式会社メルセンに引き継がれています。 http://melsen.jp/


桜組の歴史

2017-05-22 10:47:22 | 桜組

明治17(1884)年、旧佐倉藩主堀田家への債務を完済し、依田西村組は「桜組」と改称されました。

明治19(1886)年4月、西村勝三は製革技術向上のために欧州視察の旅に出ます。
フランス、ベルギー、イギリス、ドイツの諸工場を視察し、10月に製革技師のクンベンゲルをドイツから招きます。
クンベンゲルの指導により、翌20年に初めて国産革をドイツ、また靴をウラジオストックに輸出することに成功します。

明治23(1890)年、関根忠吉がアメリカからシンガーミシンを輸入し、日清戦争期の増産に貢献しました。
これに目をつけた西村勝三は明治29(1896)年、関根忠吉を再びアメリカに派遣してアリアンズ式製靴機を購入します。
これまで手縫いのみだった製靴方法を釘打ち式(ペース式)に改め、底付けを機械で分業式にすることで日産500足の増産に成功します。
西村勝三はこの機械靴を「桜組改良靴」と名付けて一般市販の靴として売り出しました。
しかし実際はほとんど東南アジアなどの輸出向けでした。

明治31(1898)年11月、桜組は会社法に基づく合資会社に改組されて、西村勝三が社長となりました。

西村勝三は日露戦争に備え、民間に機械製靴の一大工場を設立することを考えていました。
そして明治34(1901)年11月16日、新会社設立の準備のための第1回発起人相談会が行われ、2ヶ月後の明治35(1902)年1月21日、桜組、東京製皮、大倉組、福島合名の製靴部門の4社が合併して「日本製靴株式会社」が設立されました。

日本製靴株式会社は後のリーガルコーポレーションになります。

桜組の商標