当時靴は「窮屈袋」や「きう靴」と呼ばれており、そのほとんどは輸入品でした。
明治3(1870)年に西村勝三が伊勢勝造靴場を開設して以後、国産靴は年々普及していきましたが、外国人から見ると酷いものであったらしく、明治11(1878)年東京大学に招かれた動物学者のエドワード・モースの紀行文「日本その日その日」には次のように書いています。
「日本人は我々の服装を使用するのに、帽子はうまい具合にかぶり、また衣服も相当に着こなす。しかし日本の靴屋さんは、見たところ靴らしく思われる物は作れるが、まだまだ踵を固くする技術をのみこんでいない。靴を見ることは稀であるが、見る靴は大抵踵のところが曲がっている。ある男は、堂々たる夜会服を着て、ズボンを膝までくる長靴の中へ押し込んでいたのを見て、私はこうまでして洋服を着ねばならない日本人にたいして大いに同情した…」
明治前期のデザインは、七つの部分がはぎ合わされた「七つはぎ」という深靴が大礼服用に作られました。
甲材料は高級品向けとしてフランス革、軍靴にはヨーロッパの多脂革、一般用にはメリケン革、南京革が用いられました。
この当時の靴は爪先芯が無かったので、爪先は低く尖っており、爪先芯の代わりに大塚岩次郎が考案した「鼻まくり」が使われていました。
明治17(1884)年から22(1889)年頃の鹿鳴館時代に入ると、サイドゴアブーツが用いられ、婦人靴はハトメまたはボタンが片側に11個も付いた3cm半位の積革ヒールのブーツが用いられました。
この頃には海軍軍靴が正式制定され、水兵靴が作られました。
一般の靴は爪先の尖ったケント型や四角いもので、飾り革には一文字飾りの他ケン飾りがありました。
明治20(1887)年には内羽根式の短靴やボタンブーツが用いられました。
明治36(1903)年にトモエヤがアメリカから、爪先の盛り上がった木型を輸入して「マッキンレー靴」を発売しました。
当時の靴の小売価格は2円80銭から5円80銭位でした。
明治38(1905)年には編上靴の後ろ革に市革が付けられ、その後41(1908)年にはアキレス腱部の破損を防止し、耐久性をつけるために、二重に月形革が付けられるようになりました。
明治末期には子供に洋服を着せるようになり、子供靴も作られ、頭にリボンを付け、海老茶の袴に靴を履いた女学生の風俗は明治時代から大正末期まで続きました。