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トモエヤが1906(明治39)年に行われた汽車博覧会に参加したことを記念して作られた絵葉書です。
汽車博覧会は明治39年9月に大阪時事新報社の主催で、各地の主要駅に停車して展示、販売などを行っていた移動商品市でした。
主な参加企業は白木屋、高島屋などの百貨店、時計の天賞堂、タバコの岩谷商会、丸善など。
しかし、この翌年の1907(明治40)年に起こった大恐慌によってトモエヤは倒産してしまいました。
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トモエヤは明治2(1869)年、丸屋商社(後の丸善)を退社した相場真吉が京橋伝馬町一丁目に開業した靴店です。
開業当初は靴があまり売れないので舶来の鞄や香水などの雑貨に力をいれていましたが、市民の洋装化によって靴の需要も増して、明治20(1887)年に尾張町六丁目と銀座三丁目に支店を出したことにより客足は増加しました。
明治の中期頃には銀座一帯の電柱という電柱に、マンジ巴の商標に「靴と鞄の一点張(専門店)」の文句を張り出して大衆宣伝を行いました。
明治30年頃には本店(京橋南伝馬町一丁目)、銀座第一支店(尾張町六丁目)、銀座第二支店(銀座三丁目)、京橋支店(本店前)、女子大前売店まで支店を出しましたが、明治33(1900)年に真吉は51歳で亡くなりました。
2代目を継いだ達之助は明治35(1902)年、親族の反対を押しきってアメリカからマッケイ製靴機一式と4名の技師を招き、翌36年に当時のアメリカ大統領の名前を取って「マッキンレー靴」と名付けて売り出しました。
「丈夫で、安くて、安心のできる機械靴」がキャッチフレーズで、価格は
(A号)二円八十銭 (B号)三円八十銭 (C号)四円八十銭 (D号)五円八十銭でした。
トモエヤの丈夫で安い機械靴は、手縫い靴業者からは敵視されました。
その後も順調に販売額を増やしていきましたが、明治40(1907)年、戦後の大恐慌によってトモエヤは倒産してしまいました。
ちなみにトモエヤの一番番頭だった矢代徳次郎は倒産後にヨシノヤ靴店(銀座ヨシノヤ)を開業します。