日本古靴資料館

日本の靴の歴史についてのデータベースですが、まだ未完成ですので気長にお待ちください。

スタンダード靴 靴のしおり

2019-05-08 14:53:00 | スタンダード靴

このパンフレットは米国のインターナショナル・シュー・カンパニーのブランド「ウィンスロップ」の発売記念で発行された物でしょうか。

パンフレット内には資本金が八千万円とあるので、東京・足立区の新工場の完成前(※)、ウィンスロップの発売は1961(昭和36)年なので、61年か62年に発行された物だと思います。

※新工場の増築や、高野・淀川工場の機械設備の更新に伴い1963(昭和38)年4月1日に資本金が二億円に増資される。


1961(昭和36)年2月5日、東京帝国ホテルにてインターナショナル社技術提携発表会が行われ、ウィンスロップは3月21日に発売されました。
また、このときに従来の製品呼称をブランドから製品番号制に切り替えられます。



スタンキングデラックスのメッシュスリッポン

2018-09-08 09:53:00 | スタンダード靴

スタンダード靴から1969(昭和44)年に発売されたブランド「スタンキングデラックス」のメッシュスリッポンです。



1971(昭和46)年のカタログ

このカタログを見るとスタンキングデラックスは当時流行していたヨーロピアンコンチネンタル調のデザインが多かった模様です。

ソールはヒドゥンチャネルで、マッケイ製法で作られています。


ヒールはスタンダード靴の純正です。


リクソンシューズとメイジ・リクソン

2018-08-29 14:41:00 | スタンダード靴
1962(昭和37)年の秋にスタンダード靴はリクソンソール(メイジ・リクソン)を底材に使用した「リクソンシューズ」を発売しました。

リクソンソールとは明治製革がフランスのアンリー・ボッケ社と技術提携して開発した底革で、酸化ジルコニュームという金属製の鞣剤を使って鞣したものであり、従来の渋鞣しとクローム鞣しよりも柔軟性、耐水性にも優れた底材でした。

当時のリクソンシューズ


リクソンソール


リクソンシューズは9月11日から東京都内の三越各店(日本橋、銀座、新宿、池袋)で先行販売され、11月より全国販売が開始されました。

スタンダード靴の歴史 その3

2018-04-12 12:44:00 | スタンダード靴
1927(昭和3)年、ランディス商会の関根幸助、荻津完の両名が九分製の製靴方法を考案しました。

当時の九分製はオール機械製やオール手工製よりも生産費の靴を作る目的で考案され、九分製の登場により機械靴対手工靴及び機械製靴会社同士の販売競争は激甚を極めました。
このため1928(昭和3)年、大阪出張所を設け、販売力を強化しました。

同年6月28日、商業をスタンダード靴株式会社と改称しました。

スタンダード靴創業初年度から3年度までの売上高と日産数は

●初年度売上高 27万700円 日産数113足
●2年(大正15)度売上高 36万6792円 日産数174足
●3年(昭和2)度売上高 41万5751円 日産数235足

製甲部ミシンの配置換えを行い製甲工程の生産効率は増進しましたが、日産300足でも採算が取れなくなり、大量生産により製造単価を引き下げることになり、第二工場を建設しました。

第二工場では磯畑弘太郎が製造主任となり、増産体制を整えました。


●第二工場増設後の工場全景と建物配置図(スタンダード靴七十年史より)

スタンダード靴の歴史 その2

2017-06-27 21:10:00 | スタンダード靴
大正15(1926)年春から全国靴市場は機械靴の進出と、これに対抗する手工靴との競争で混乱状態に陥り、消費者の中では格安品が歓迎される傾向が顕著になっていました。

これに対し東京スタンダード靴は高級素材使用の高級靴だけを製造、販売してきましたが、水牛革に加工した底革を保証底と名付け、これに保証券を付けて販売するなどの対応策を取りました。

翌昭和2(1927)年1月、宮澤胤勇は新興財閥の野村家に運転資金の援助を求める為に家長の野村徳七と面談しました。

当時既に各種の事業に資金を固定していた野村家は資金的に相当窮屈でしたが、野村徳七は製靴事業の将来性を理解し、野村家の直系事業として東京スタンダード靴の経営にあたることに決定しました。

4月7日、有楽町の鉄道協会で臨時株主総会が開かれました。
役員人事では、取締役の吉田秀人、西井賢英、田上嘉八郎、監査役の大澤孚、相談役の増田義一、荻野元太郎が辞任し、新たに取締役として野村合名会社から岡崎逸平、相談役に小澤福三郎が就任しました。

18日には本店を東京府下西新井村から、東京駅前丸ビルに移転しました。

野村合名会社の援助工作の大任を果たした宮澤胤勇は6月に取締役を辞し、代わって野村合名理事の小澤福三郎が取締役会長に就任し、経営の実態は名実共に野村家事業の傘下に移りました。