明治17(1884)年、旧佐倉藩主堀田家への債務を完済し、依田西村組は「桜組」と改称されました。
明治19(1886)年4月、西村勝三は製革技術向上のために欧州視察の旅に出ます。
フランス、ベルギー、イギリス、ドイツの諸工場を視察し、10月に製革技師のクンベンゲルをドイツから招きます。
クンベンゲルの指導により、翌20年に初めて国産革をドイツ、また靴をウラジオストックに輸出することに成功します。
明治23(1890)年、関根忠吉がアメリカからシンガーミシンを輸入し、日清戦争期の増産に貢献しました。
これに目をつけた西村勝三は明治29(1896)年、関根忠吉を再びアメリカに派遣してアリアンズ式製靴機を購入します。
これまで手縫いのみだった製靴方法を釘打ち式(ペース式)に改め、底付けを機械で分業式にすることで日産500足の増産に成功します。
西村勝三はこの機械靴を「桜組改良靴」と名付けて一般市販の靴として売り出しました。
しかし実際はほとんど東南アジアなどの輸出向けでした。
明治31(1898)年11月、桜組は会社法に基づく合資会社に改組されて、西村勝三が社長となりました。
西村勝三は日露戦争に備え、民間に機械製靴の一大工場を設立することを考えていました。
そして明治34(1901)年11月16日、新会社設立の準備のための第1回発起人相談会が行われ、2ヶ月後の明治35(1902)年1月21日、桜組、東京製皮、大倉組、福島合名の製靴部門の4社が合併して「日本製靴株式会社」が設立されました。
日本製靴株式会社は後のリーガルコーポレーションになります。
桜組の商標