日本古靴資料館

日本の靴の歴史についてのデータベースですが、まだ未完成ですので気長にお待ちください。

佐倉相済社の歴史

2017-05-21 21:09:57 | 佐倉相済社

旧佐倉藩主の堀田正倫は、大参事の西村茂樹(西村勝三の実兄)らと共に廃藩で禄を失った旧藩士たちの生活を救済するために明治2(1869)年秋、私財を投じて旧演舞場を改造し、造靴場、織物場などを設置しました。

これが佐倉相済社と呼ばれ、その中には当時12歳の大塚岩次郎(大塚製靴創業者)も伝習生として居ました。

製靴方法は突き合わせの簡単な分業で行われ、東京の伊勢勝造靴場から木田健次、川口伝造、北田義造を教師として招き、伊勢勝で靴工に技術を教えていた清国人の藩浩も教師として度々佐倉相済社で技術を教えていました。

1日1足~3足仕上げて賃金は30銭で、製出高は1年間に1万3500足だったそうです。
佐倉相済社は、伊勢勝の下請工場として明治13(1880)年まで続きました。


伊勢勝造靴場の歴史

2017-05-21 18:34:55 | 伊勢勝造靴場

明治政府は富国強兵策により陸海軍の洋式軍備に着手しました。

明治2(1869)年3月、伏見駐在の親衛兵にフランス式の軍帽、ズボン、洋靴を使用させました。
最初の洋靴はフランスから輸入した靴を履いていましたが、外国人向きの大きく幅の狭い木型が兵卒たちに合わず、十分な調練が出来なかった為、靴の国産化は急を要する事業となりました。

貿易業をしていた伊勢勝商店の西村勝三は、兵部大輔の大村益次郎の勧めにより、断髪して製靴業に専心することになりましたが、大村益次郎は同年9月に京都で刺客に襲われて亡くなってしまいました。
翌明治3(1870)年2月、西村勝三はスイス領事に造靴参考品、皮革、機械を注文し、そして3月15日、築地入船町に日本初の洋式製靴工場「伊勢勝造靴場」を開設し、軍靴第1号の生産に着手しました。

初めの靴教師は藩浩という清国人を横浜から呼びました。
藩浩は香港で製靴技術を覚え、製甲はミシン縫いのように美しかったと言われてました。
翌明治4(1871)年11月に製革工場を築地から向島に移し、ドイツ人のボスケを製革技師として招き、半年後には軍靴用の皮革製造に成功します。
そして明治5(1972)年3月に、横浜で靴作りをしていたオランダ人のF.J.レマルシャンを雇い入れ、レマルシャンの指導により日本の製靴技術は飛躍的に上昇しました。

陸軍省から「向う十ヶ年、毎年十万足を納入すべし」と大量発注を受け、伊勢勝は順風満帆の経営でしたが、明治7(1874)年、突然陸軍省から「向う四ヶ年、毎年二万二千足と長靴二千足」と一方的に生産量を削減されました。
工場増設に莫大な資金を投じていた伊勢勝は、この大幅な生産減の契約変更によってたちまち倒産してしまいました。

資金繰りに苦慮していた西村勝三は明治10(1877)年4月、旧佐倉藩主堀田家の援助によって伊勢勝を「依田西村組」と改めて事業を続行することが出来ました(依田は堀田家から会計担当として送られた依田柴浦から)。


イトー靴店の歴史

2017-05-20 23:21:58 | イトー靴店

イトー靴店は明治29(1896)年、伊東金之助が京橋に開業した靴店です。

創業者の伊東金之助の本名は鉄太郎で、明治5(1872)年の15歳のときに築地の伊勢勝造靴場へ入ります。
鉄太郎は特に婦人靴の製作が巧く、宮中の女官靴などを作っていましたが、28歳のときに女靴専務となり、名を「金之助」と改めます。
翌明治19(1886)年に師のレマルシャンが亡くなったのを機にサンフランシスコに渡り、帰国後の明治29(1896)年にイトー靴店を開業します。

その後金之助は昭和7(1932)年に70歳で亡くなりますが、長男の慎一郎が2代目金之助を襲名し、父と同じく靴の名人として有名になりました。


トモエヤの歴史

2017-05-20 20:24:58 | トモエヤ

トモエヤは明治2(1869)年、丸屋商社(後の丸善)を退社した相場真吉が京橋伝馬町一丁目に開業した靴店です。

開業当初は靴があまり売れないので舶来の鞄や香水などの雑貨に力をいれていましたが、市民の洋装化によって靴の需要も増して、明治20(1887)年に尾張町六丁目と銀座三丁目に支店を出したことにより客足は増加しました。
明治の中期頃には銀座一帯の電柱という電柱に、マンジ巴の商標に「靴と鞄の一点張(専門店)」の文句を張り出して大衆宣伝を行いました。
明治30年頃には本店(京橋南伝馬町一丁目)、銀座第一支店(尾張町六丁目)、銀座第二支店(銀座三丁目)、京橋支店(本店前)、女子大前売店まで支店を出しましたが、明治33(1900)年に真吉は51歳で亡くなりました。

2代目を継いだ達之助は明治35(1902)年、親族の反対を押しきってアメリカからマッケイ製靴機一式と4名の技師を招き、翌36年に当時のアメリカ大統領の名前を取って「マッキンレー靴」と名付けて売り出しました。
「丈夫で、安くて、安心のできる機械靴」がキャッチフレーズで、価格は
(A号)二円八十銭 (B号)三円八十銭 (C号)四円八十銭 (D号)五円八十銭でした。
トモエヤの丈夫で安い機械靴は、手縫い靴業者からは敵視されました。

その後も順調に販売額を増やしていきましたが、明治40(1907)年、戦後の大恐慌によってトモエヤは倒産してしまいました。
ちなみにトモエヤの一番番頭だった矢代徳次郎は倒産後にヨシノヤ靴店(銀座ヨシノヤ)を開業します。

銀座にあったトモエヤの店 明治44年の新聞広告