日本古靴資料館

日本の靴の歴史についてのデータベースですが、まだ未完成ですので気長にお待ちください。

アメリカ屋靴店の歴史 その4

2018-04-15 08:35:33 | アメリカ屋靴店
ビルマのラングーンに到着した伊助一行は、軍部の命令により靴修理工場を建設し、軍靴の補給と修理の任にあたりました。

昭和19(1944)年に入ると戦況が厳しくなり、伊助達も退却を余儀なくなり命からがらシンガポールへ逃れました。

その後は戦地を転々とし、1945(昭和20)年、伊助は終戦をプノンペンで迎えました。

サイゴンでの抑留生活を送り、1947(昭和22)年に帰国した伊助は空襲によって店舗が焼失したことを知りましたが、12月には新宿の紀伊国屋前に間口二間、奥行一間の小さな店を出しました。

当時はまだ革の統制が続いていたので、廃物利用仕立靴屋という看板を出し、新聞紙大のグローブやオーバーの布といった廃材を利用して靴を作っていました。
これが婦人達の間で好評となり、1日50足の注文を受けることもありました。

そんな中戦前借りていた伊勢丹前の店の地主から、「以前の土地が空いたから使わないか」との話があり、1日に60万円以上の売上がないと厳しい条件でしたが、1949(昭和24)年12月1日、伊助は再び伊勢丹前に店を出しました。



スタンダード靴の歴史 その3

2018-04-12 12:44:00 | スタンダード靴
1927(昭和3)年、ランディス商会の関根幸助、荻津完の両名が九分製の製靴方法を考案しました。

当時の九分製はオール機械製やオール手工製よりも生産費の靴を作る目的で考案され、九分製の登場により機械靴対手工靴及び機械製靴会社同士の販売競争は激甚を極めました。
このため1928(昭和3)年、大阪出張所を設け、販売力を強化しました。

同年6月28日、商業をスタンダード靴株式会社と改称しました。

スタンダード靴創業初年度から3年度までの売上高と日産数は

●初年度売上高 27万700円 日産数113足
●2年(大正15)度売上高 36万6792円 日産数174足
●3年(昭和2)度売上高 41万5751円 日産数235足

製甲部ミシンの配置換えを行い製甲工程の生産効率は増進しましたが、日産300足でも採算が取れなくなり、大量生産により製造単価を引き下げることになり、第二工場を建設しました。

第二工場では磯畑弘太郎が製造主任となり、増産体制を整えました。


●第二工場増設後の工場全景と建物配置図(スタンダード靴七十年史より)