ビルマのラングーンに到着した伊助一行は、軍部の命令により靴修理工場を建設し、軍靴の補給と修理の任にあたりました。
昭和19(1944)年に入ると戦況が厳しくなり、伊助達も退却を余儀なくなり命からがらシンガポールへ逃れました。
その後は戦地を転々とし、1945(昭和20)年、伊助は終戦をプノンペンで迎えました。
サイゴンでの抑留生活を送り、1947(昭和22)年に帰国した伊助は空襲によって店舗が焼失したことを知りましたが、12月には新宿の紀伊国屋前に間口二間、奥行一間の小さな店を出しました。
当時はまだ革の統制が続いていたので、廃物利用仕立靴屋という看板を出し、新聞紙大のグローブやオーバーの布といった廃材を利用して靴を作っていました。
これが婦人達の間で好評となり、1日50足の注文を受けることもありました。
そんな中戦前借りていた伊勢丹前の店の地主から、「以前の土地が空いたから使わないか」との話があり、1日に60万円以上の売上がないと厳しい条件でしたが、1949(昭和24)年12月1日、伊助は再び伊勢丹前に店を出しました。
昭和19(1944)年に入ると戦況が厳しくなり、伊助達も退却を余儀なくなり命からがらシンガポールへ逃れました。
その後は戦地を転々とし、1945(昭和20)年、伊助は終戦をプノンペンで迎えました。
サイゴンでの抑留生活を送り、1947(昭和22)年に帰国した伊助は空襲によって店舗が焼失したことを知りましたが、12月には新宿の紀伊国屋前に間口二間、奥行一間の小さな店を出しました。
当時はまだ革の統制が続いていたので、廃物利用仕立靴屋という看板を出し、新聞紙大のグローブやオーバーの布といった廃材を利用して靴を作っていました。
これが婦人達の間で好評となり、1日50足の注文を受けることもありました。
そんな中戦前借りていた伊勢丹前の店の地主から、「以前の土地が空いたから使わないか」との話があり、1日に60万円以上の売上がないと厳しい条件でしたが、1949(昭和24)年12月1日、伊助は再び伊勢丹前に店を出しました。