アメリカ屋靴店では1971(昭和46)年にエルダーセールスマン制度を発足させました。
エルダーセールスマン制度とは、入社歴5年以上、CPC(中央点数計算)制度60000点以上の販売員の中から接客技術、商品知識、一般常識、現代ファッションの知識などに精通した優れた社員を審査によって選ぶ制度で、5月には第一期として3人が選ばれました。
1973(昭和48)年5月に、アメリカ屋靴店は物理的限界により、それまでいた渋谷区富ヶ谷から、大田区の東京流通センターに移転しました。
この時点で店舗数79、年商111億円と、日本一の靴小売店に成長しましたが、店舗数増加によるコストを削減するために、大型コンピューター「HITAC-8150」を導入しました。
1974(昭和49)年9月にアメリカ屋靴店初の海外店がシンガポールのオーチャードロードにオープンしました。
シンガポール・オーチャードロード店
その後1975(昭和50)に創業50年を迎え、1977(昭和52)年には売上170億、店舗数105店となりましたが、経営不振により1999(平成11)年、アメリカ屋靴店は負債227億円を抱え、倒産してしまいました。
エルダーセールスマン制度とは、入社歴5年以上、CPC(中央点数計算)制度60000点以上の販売員の中から接客技術、商品知識、一般常識、現代ファッションの知識などに精通した優れた社員を審査によって選ぶ制度で、5月には第一期として3人が選ばれました。
1973(昭和48)年5月に、アメリカ屋靴店は物理的限界により、それまでいた渋谷区富ヶ谷から、大田区の東京流通センターに移転しました。
この時点で店舗数79、年商111億円と、日本一の靴小売店に成長しましたが、店舗数増加によるコストを削減するために、大型コンピューター「HITAC-8150」を導入しました。
1974(昭和49)年9月にアメリカ屋靴店初の海外店がシンガポールのオーチャードロードにオープンしました。
シンガポール・オーチャードロード店
その後1975(昭和50)に創業50年を迎え、1977(昭和52)年には売上170億、店舗数105店となりましたが、経営不振により1999(平成11)年、アメリカ屋靴店は負債227億円を抱え、倒産してしまいました。
ライバルのワシントンはまだ残っていますが、店舗も随分減りましたね…。
とても興味深く読ませていただきました。
私は難波誠司の孫にあたる者です。
アメリカ屋の話は聞いておりましたが、ここまで詳しいことを知ったのは初めてです。
最後にアメリカ屋のおばちゃんにお会いしたのは、まだ小学生の頃だったかと…
書いてくださり感謝しております。
ありがとうございました‼️
アメリカ屋は私が物心付く前に既に無くなっているので、当時の事は何も分からないのです…ごめんなさい。
これは資料を元に書いているので、最後の方がざっくりとしてしまっていますが、読んでくださりありがとうございました。
倒産して随分経ってから、こんなに詳細にアメリカ屋の歴史を読めるとは思いませんでした。
ただ、80年代から倒産までの記載がなかったので、急転直下な感じで「あらっ、終わっちゃった」と思いました。
しょうがないですよね、その辺りは社員じゃないとわからないですもんね。
懐かしかったです。ありがとうございました。
わざわざ読んでくださりありがとうございます。
自分の持っている資料では80年代以降の事は載っていないので、どうしても書くことが出来ませんでした。
申し訳ありません。
私はバブル期入社でしたので、世が浮き足だった時代にアメリカ屋で過ごしました。
ポスター、カレンダーは有名カメラマン撮影、CMキャラクターに宮沢りえ、高橋由美子、常盤貴子という当時の一流どころを起用、社員旅行はハワイ・・・ 完全にバブルでした。
右肩上がりを信じて疑わなかった、不思議な時代でした。
『三代目が身上を潰す』の典型のような最期でしたが、自分にとっては素敵な出会いや楽しい思い出をたくさんくれた会社でした。
当時の取引先もどんどん倒産してしまって寂しい限りです。
どういう経緯でこちらのブログを書くきっかけになったのかは存じ上げませんが、読ませていただけて良かったです。
どうもありがとうございました。
社員旅行はグアムでした。「二年後にハワイに行けるように頑張ろう」と当時言われてましたが、その辺りから斜陽が始まり、叶わず終わりました。
行った気分で誤記してしまいました。失礼いたしました。
万が一当時の社員の方がご覧になったら「ハワイには行ってないぞ」となるので訂正でした。
何度も失礼いたしました。
アメリカ屋はバブルを引きずっていた会社だったのでしょうかね…。