日本古靴資料館

日本の靴の歴史についてのデータベースですが、まだ未完成ですので気長にお待ちください。

明治製革の歴史

2017-05-22 13:47:36 | 明治製革

明治40(1907)年4月1日、桜組、東京製皮、大倉組の皮革部門が合併して「日本皮革株式会社」(現ニッピ)が設立されました。
桜組の副支配人だった浦辺襄夫は日本皮革から離れ、桜組の名称を譲り受けて明治40(1907)年6月、「合資会社桜組」を改めて丸ノ内に設立しました(後の桜組工業)。

そして明治44(1911)年10月20日、浦辺襄夫は「明治製革株式会社」を創立し、向島に本社工場を建設しました。

当時の靴業界は底革及び甲革は主にアメリカや欧州から輸入されたものに依存していました。
茶利皮という軍用甲革は国内で鞣されていましたが、一般向けのクローム革はほぼ輸入品で、一般向けの底革はメリケン象皮と称し、ほとんどはアメリカからの輸入品でした(国産の革底は和象皮と呼んでいた)。

浦辺襄夫はメリケン象皮と同品質の靴底革を国内で生産するに当たって、入社したばかりの技師長、福島松男をアメリカへ派遣してリチャード・R・レイを技師として迎えました。

そして明治45(1912)年に「えびす印」、2年後の大正3(1914)年に「ライオン印」として底革を売り出し、ライバルの日本皮革の「鳳凰印」の底革との販売競争によって10年足らずにメリケン象皮を駆逐するに至ります。

大正3(1914)年に起こった第一次世界大戦によってロシア軍から大量発注を受け、皮革・製靴業界は好景気に湧きましたが、4年後の大正7(1918)年、突如ロシア革命が起こり、製造した軍靴の引き取り手が無くなってしまう大事件が起こります。

この事件は皮革・製靴業界に大打撃を与えますが、明治製革はこの難局を突破しようと技師の小沢清三をアメリカに派遣して、新たに高級クローム革の生産を計画します。
渡米した小沢清三はチェコ人技師のフランコイス・A・ベセレーを伴い帰国し、高級クローム革の生産を始めました。

ライオン印クローム革として売り出された国産クローム革は、外国品のクローム革を凌ぐものと大きな反響を呼びました。

ロシア帝国の崩壊によって大損害を受けた明治製革は大正11(1922)年9月、大手町日清生命ビルの3階、永楽クラブで臨時株主総会を行い、社長の浦辺襄夫、重役の鈴木重成、福島松男、宮沢胤男の退任となりました。
この騒動によってクローム革の製造は中止となり、大正13(1924)年4月に福島松男は千代田機械製靴(後のチヨダシューズ)、宮沢胤男は10月に東京スタンダード靴(後のスタンダード靴)を設立しました。

資本金の縮小などによって経営は傾きましたが昭和10(1935)年、日本が北満鉄道を3億円でソ連より買収することになり、その中の2億円は外貨で支払い、1億円は物資で代償しました。
その中の300万円は靴底革を供給することとなり、大倉商事との接戦の結果、明治製革及びスタンダード靴が靴底革を提供することになり、これにより明治製革は経営を立て直すことが出来ました。

戦後の昭和25(1950)年春、日本政府は重要産業17種の代表者をアメリカに送って、戦後の産業復興に資することになり、皮革業界を代表して昭和19(1944)年より明治製革の社長となった宮沢胤男が渡米することになりました。
帰国後、戦時中のアメリカで広まっていたクローム甲革のガラス張り仕上法による甲革の生産を開始、飯田工場は日本初のガラス張り鞣成工場となりました。

平成2(1990)年7月にメルクス株式会社に社名変更をしますが、平成27(2015)年にメルクスは倒産してしまいました。

現在、明治製革の技術は株式会社メルセンに引き継がれています。 http://melsen.jp/