日本古靴資料館

日本の靴の歴史についてのデータベースですが、まだ未完成ですので気長にお待ちください。

伊勢勝造靴場の歴史

2017-05-21 18:34:55 | 伊勢勝造靴場

明治政府は富国強兵策により陸海軍の洋式軍備に着手しました。

明治2(1869)年3月、伏見駐在の親衛兵にフランス式の軍帽、ズボン、洋靴を使用させました。
最初の洋靴はフランスから輸入した靴を履いていましたが、外国人向きの大きく幅の狭い木型が兵卒たちに合わず、十分な調練が出来なかった為、靴の国産化は急を要する事業となりました。

貿易業をしていた伊勢勝商店の西村勝三は、兵部大輔の大村益次郎の勧めにより、断髪して製靴業に専心することになりましたが、大村益次郎は同年9月に京都で刺客に襲われて亡くなってしまいました。
翌明治3(1870)年2月、西村勝三はスイス領事に造靴参考品、皮革、機械を注文し、そして3月15日、築地入船町に日本初の洋式製靴工場「伊勢勝造靴場」を開設し、軍靴第1号の生産に着手しました。

初めの靴教師は藩浩という清国人を横浜から呼びました。
藩浩は香港で製靴技術を覚え、製甲はミシン縫いのように美しかったと言われてました。
翌明治4(1871)年11月に製革工場を築地から向島に移し、ドイツ人のボスケを製革技師として招き、半年後には軍靴用の皮革製造に成功します。
そして明治5(1972)年3月に、横浜で靴作りをしていたオランダ人のF.J.レマルシャンを雇い入れ、レマルシャンの指導により日本の製靴技術は飛躍的に上昇しました。

陸軍省から「向う十ヶ年、毎年十万足を納入すべし」と大量発注を受け、伊勢勝は順風満帆の経営でしたが、明治7(1874)年、突然陸軍省から「向う四ヶ年、毎年二万二千足と長靴二千足」と一方的に生産量を削減されました。
工場増設に莫大な資金を投じていた伊勢勝は、この大幅な生産減の契約変更によってたちまち倒産してしまいました。

資金繰りに苦慮していた西村勝三は明治10(1877)年4月、旧佐倉藩主堀田家の援助によって伊勢勝を「依田西村組」と改めて事業を続行することが出来ました(依田は堀田家から会計担当として送られた依田柴浦から)。