日本古靴資料館

日本の靴の歴史についてのデータベースですが、まだ未完成ですので気長にお待ちください。

アメリカ屋靴店の歴史 その7

2019-02-01 20:19:00 | アメリカ屋靴店
アメリカ屋靴店では1971(昭和46)年にエルダーセールスマン制度を発足させました。

エルダーセールスマン制度とは、入社歴5年以上、CPC(中央点数計算)制度60000点以上の販売員の中から接客技術、商品知識、一般常識、現代ファッションの知識などに精通した優れた社員を審査によって選ぶ制度で、5月には第一期として3人が選ばれました。

1973(昭和48)年5月に、アメリカ屋靴店は物理的限界により、それまでいた渋谷区富ヶ谷から、大田区の東京流通センターに移転しました。

この時点で店舗数79、年商111億円と、日本一の靴小売店に成長しましたが、店舗数増加によるコストを削減するために、大型コンピューター「HITAC-8150」を導入しました。

1974(昭和49)年9月にアメリカ屋靴店初の海外店がシンガポールのオーチャードロードにオープンしました。
シンガポール・オーチャードロード店

その後1975(昭和50)に創業50年を迎え、1977(昭和52)年には売上170億、店舗数105店となりましたが、経営不振により1999(平成11)年、アメリカ屋靴店は負債227億円を抱え、倒産してしまいました。

アメリカ屋靴店の歴史 その6

2018-10-18 10:28:00 | アメリカ屋靴店
アメリカ屋靴店は1967(昭和42)年11月に大阪心斎橋店、翌年8月に大阪戎橋店の出店の成功により、スピード出店の時代に入りました。

両店で12億円巨額な費用を投じた店内は、売場面積350~500平方メートルを誇り、中でも戎橋店は店内にエスカレーターを設置し、大きな話題になりました。


オープン当時の大阪戎橋店

高度経済成長期に入りアメリカ屋靴店も徐々に業績を伸ばし、1971(昭和46)年に靴業界初のフランチャイズシステムを導入しました。
9月24日にフランチャイズチェーン第1号店として溝の口駅前店がオープンし、初日200万円を売り上げ、大成功を収めました。
この年フランチャイズチェーンを高松、厚木に、翌昭和47年に相模原、川崎、昭和48年には富山、沼田、富士吉田、堀切、秩父、苫小牧、五所川原、木更津と全国各地に展開しました。

オープン直後の溝ノ口店


アメリカ屋靴店の歴史 その5

2018-05-18 04:42:00 | アメリカ屋靴店
伊助の悲願であった伊勢丹前店は順調に業績を伸ばし、戦後の景気上昇の波に乗って1953(昭和28)年7月1日に東京駅名店街(現在の東京駅一番街)に出店しました。

周囲は「東京駅に出店しても旅客が靴を買うはずがない」と噂をしていましたが、伊助は当時資本金200万円の時代に1000万円の資金をつぎ込みました。

オープン間もなく月1回名物のバーゲンセールが始まり、名店街店は半月後には顧客で大いに賑わいました。

この成功により翌昭和29年10月1日に渋谷道玄坂下に渋谷地下店を出店し、1956(昭和31)年には新宿伊勢丹前店、東京駅名店街店、渋谷地下店の3店舗で売上3億円を達成しました。

1957(昭和32)年に数寄屋橋に銀座店を開店し、ライバルのワシントン靴店の本拠地である銀座に進出し、9月1日に新宿駅前に賃貸形式を取らないアメリカ屋靴店初の独立店舗をオープンしました。

当初新宿駅前にはライバルのワシントン靴店が進出する話があり、そこで伊助は駅前の福屋という蕎麦屋を買収し、アメリカ屋靴店の不動産部門として株式会社福屋を設立しました。

以降は
1960(昭和35)年10月1日 新宿三越前店
1962(昭和37)年8月1日 渋谷東宝隣店
同年11月1日 横浜ステーションビル店
1963(昭和38)年4月28日 千葉店
1964(昭和39)年5月1日 新宿駅ビル店
と次々に出店し、昭和39年10月9日に群馬県高崎市の藤五デパートに高崎店を開店し、アメリカ屋初のデパート出店を果たしました。

アメリカ屋靴店の歴史 その4

2018-04-15 08:35:33 | アメリカ屋靴店
ビルマのラングーンに到着した伊助一行は、軍部の命令により靴修理工場を建設し、軍靴の補給と修理の任にあたりました。

昭和19(1944)年に入ると戦況が厳しくなり、伊助達も退却を余儀なくなり命からがらシンガポールへ逃れました。

その後は戦地を転々とし、1945(昭和20)年、伊助は終戦をプノンペンで迎えました。

サイゴンでの抑留生活を送り、1947(昭和22)年に帰国した伊助は空襲によって店舗が焼失したことを知りましたが、12月には新宿の紀伊国屋前に間口二間、奥行一間の小さな店を出しました。

当時はまだ革の統制が続いていたので、廃物利用仕立靴屋という看板を出し、新聞紙大のグローブやオーバーの布といった廃材を利用して靴を作っていました。
これが婦人達の間で好評となり、1日50足の注文を受けることもありました。

そんな中戦前借りていた伊勢丹前の店の地主から、「以前の土地が空いたから使わないか」との話があり、1日に60万円以上の売上がないと厳しい条件でしたが、1949(昭和24)年12月1日、伊助は再び伊勢丹前に店を出しました。



アメリカ屋靴店の歴史 その3

2017-09-29 10:44:05 | アメリカ屋靴店
開店当時の新宿はまだ場末の感じでしたが、店主の宮崎伊助自ら

「ご通行中の皆様、道路の延長とおぼしめして、ご自由に店内をご覧下さい。アメリカ屋は消費者の味方です。皆様の味方です。こんな安い靴はどこにもございません。」

とマイクで毎日朝から晩まで独特な宣伝放送をしていました。

開店当初の販売方針は機械靴に重点を置き、アメリカから仕入れた修理機械も稼働させました。

開店から9ヶ月後には隣の店舗の権利を買い取って拡張し、開店から8年後の1933(昭和8)年に新宿駅東口の伊勢丹百貨店の前に支店を出しました。
これを機にアメリカ屋の売り上げは倍増し、平日で200~300円、土日は700円前後を売り上げました。

直属工場を設けて手工製のオリジナル製品を販売し、店員も25人程まで増えて順風満帆の日々でしたが、1937(昭和12)年7月、日華事変の勃発を機に日本は戦争に突入していきます。

1938(昭和13)年7月に革靴三規則が公布されて革製品の統制が厳しくなり業界が大騒ぎする中、伊助は軍からの要請で三菱商事の下請けとしてビルマ(ミャンマー)の最前線で軍靴の補給や修理をする組織を設立することとなりました。

1942(昭和17)年、伊助を含めた一行15名はビルマの最前線へ向かいました。
伊助の他5名は靴の指導員、その他が各種軍需用革具製造指導員で、伊助は少佐待遇の責任者でした。

伊助は義弟の難波誠司氏に店の一切を任せました。