『17の夏』は、いい。
多分、淳子ファンの圧倒的支持があると思う。
何がいいのか。
この曲の特徴を捉えてみよう。
全体的には、青春まっ盛りの『力強い危うさ』に溢れている。
淳子さんの表現を少し観察してみよう。
この曲は、ほとんど振り付けはなく、表情の変化だけで、17才の危うさを表現しているところがミソだ。変化を見てみよう。
歌い出しの、『特別に愛してよ』のところからは、真剣な眼差しと自然なスマイルがバランスよく繰り返される。
そして、『こっちへおいでとあなたがいうから』のところで、
恥じらいにも似た、乙女の戸惑いの表情をみせる。
この曲のきもの部分だ。
『裸足でかけて』のところから、
気持ちが徐々にせり上がり、疾走感が出てくる。そして、迷いを吹っ切り、決意を固めた顔に変わる。
『好きよ』を繰り返すことにより、高揚感が生まれる。目を閉じて相手に任せている状況だろう。
『誰もみな見ないふり』のところから、
安堵に満ちた笑顔に変わり、勝者の顔になる。
最後は、『17の夏』というところで、これでもかという位の渾身の『目力』で歌い上げる。
何と表現すべきだろうか。この短時間の表現力は。
阿久悠さんが、『演じなさい』という指導が生きている。
この集中力は、まさに天才桜田淳子の真骨頂だと思う。
しかし、この曲は、時代の先端ではない。
4年前シンシアこと南沙織さんの『17才』の女性像をでていない。『17才』では、『二人の愛を確かめたくって』という女性の仕掛けという攻撃的要素がある。
しかし、『17の夏』では、『あなたが言うから』と、恥じらいながら相手に委ねるところがある。
女性像としては、受け身の古風な趣だ。
これは、二つの曲の作詞家が女性か男性かで異なる所にあるのだろう。
しかし、それだけではない。
阿久悠さんが、淳子さんの心を読んで作詞したのだとは思うが、逆に、淳子さんが余りに感情移入して演じる余り、自分の心に、古典的女性像、一途な思いが逆流して、イメージを作ったのかもしれない。
まあ、それでこそ淳子さんなのだが。
それにしても、南沙織さんが女性からも好感を持たれているのに、淳子さんが熱狂的男性ファンに支えられ、隠れ淳子ファンを作ってしまった一因が見え隠れする。
このことは、阿木燿子さんと山口百恵さんのコンビの成功にもいえることだが。
女性目線は、改めて必要だと痛感する次第である。
もちろん、淳子さんも、後々『しあわせ芝居』で新境地を開いていくことになる。
追伸 淳子さん的女性像の影の部分は、別のブログ記事(何をか言わんや)のテーマなので、そちらに譲ります。