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病弱な升田幸三の前でわざと“大食漢”」「名人戦で負けたのに中原誠を激励」50期連続タイトル戦出場…大山康晴の盤上・盤外勝負術がスゴい

2023年11月30日 19時03分54秒 | 文化と芸能
「病弱な升田幸三の前でわざと“大食漢”」「名人戦で負けたのに中原誠を激励」50期連続タイトル戦出場…大山康晴の盤上・盤外勝負術がスゴい(Number Web) - Yahoo!ニュース

 


「病弱な升田幸三の前でわざと“大食漢”」「名人戦で負けたのに中原誠を激励」50期連続タイトル戦出場…大山康晴の盤上・盤外勝負術がスゴい
11/29(水) 11:02配信


生まれ故郷の倉敷市を訪れた際の大山康晴十五世名人 photograph by Masahiko Ishii


大山康晴十五世名人の偉大な将棋人生をたどるシリーズの第2回は「激闘編」。木村義雄名人を破って名人を初獲得、宿命のライバルの升田幸三(実力制第四代名人)との勝負、振り飛車を駆使して五冠を独占した全盛時代、盤外での勝負術、将棋界の太陽と呼ばれた中原誠(十六世名人)の台頭などについて、田丸昇九段が解説する。【棋士の肩書は当時】(全3回の2回目/#3へ)


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 戦後まもない1946年(昭和21)5月。名人戦の予選リーグに当たる「順位戦」の対局が始まった。従来の段位主体の制度を撤廃し、ABCのクラスで棋士を査定する新たな制度が導入された。


 第1期順位戦には、関西の木見金治郎八段門下の大山康晴六段と兄弟子の升田幸三七段がB級で出場した。升田は12勝2敗でA級に昇級し、大山も11勝3敗の好成績だったがB級に留まった。


 A級で優勝した塚田正夫八段は、1947年の名人戦で木村義雄名人に挑戦して4勝2敗で破り、塚田新名人が誕生した。


 常勝将軍と呼ばれた無敵の木村がついに敗れた。しかし「技術で負けたとは思わない。短時間将棋に対する不慣れが敗因だ。この制度を修業してA級でやり直す」と語り、名人復位を誓った。


大山と升田の立場の違いによって微妙な関係に
 戦前の名人戦は、3日制・持ち時間は各15時間だった。戦後まもない名人戦は、物資が不足して対局場の設営が難しい事情によって、1日制・持ち時間は各8時間に短縮された。大山は戦前の1942年に師匠の木見八段の推挙で毎日新聞社の嘱託に就いた。升田も1943年に病没した大棋士の後任として朝日新聞社の嘱託に就き、新聞社が有力棋士をその身分に遇することは昔からあった。


 大山と升田は立場の違いが生じ、後年に微妙な関係になった。


 第2期順位戦は、A級の升田八段が11勝2敗で優勝した。本来なら塚田名人への挑戦者になるところだ。しかし1年前に規約改正がされていたため、升田、A級2位・3位の棋士、B級1位の大山七段の4人で挑戦権を争うことになった。A級の成績上位者やB級の逸材にもチャンスを与えるという趣旨だった。当時の名人戦主催者は毎日新聞社で、升田は「毎日新聞は大山に都合の良い規定を作ったのだろう」と憤慨した。


 挑戦者決定三番勝負は、升田と勝ち抜いた大山が対戦した。1勝1敗で迎えた第3局は、升田が終盤で勝ち筋になったが、軽率な一手を指して逆転負けを喫した。升田は直後に「錯覚いけない、よく見るよろし」と、おどけるように嘆いた。

29歳での新名人…「箱根越え」を果たした
 1948年の名人戦で大山八段は塚田名人に初挑戦し、2勝4敗で敗退した。


 1949年頃の日本はひどいインフレで、棋士たちも生活が苦しかった。そのため日本将棋連盟は名人戦主催者の毎日新聞社に3倍増の契約金を要求した。ただ新聞社も経営が厳しい状況で、毎日の回答額はそれに満たなかった。連盟と毎日の協議は進展せず、ついに不成立となる。その後、名人戦主催者は朝日新聞社に移行した。そこには同社嘱託の升田の働きかけが影響したという。


 毎日の大山に朝日の升田と、両者は盤上だけでなく盤外でも対立する関係になっていた。


 1952年の名人戦で大山八段は、1949年に名人復位を遂げていた木村名人に再挑戦し、4勝1敗で破って29歳で新名人に就いた。敗れた木村は「良き後継者を得た」と語り、現役引退を47歳で表明した。さらに関西出身の棋士の名人獲得は初めてだったこともあり、新聞は見出しで「名人の箱根越え」と表現した。


「故郷の父からは、十五世を五つ取れと」
 大山が故郷の岡山県に戻ると大歓迎を受けた。しかし、喜びは束の間だった。次期名人戦で防衛できるのだろうかと、その不安感に悩んだという。


 大山名人は1953年と54年の名人戦で升田八段の連続挑戦を受け、いずれも4勝1敗で防衛を果たした。宿命のライバルと言われた対決を制し、それは大きな自信となった。升田の攻めを抑えた受け将棋にも磨きがかかった。ただ大山の将棋は受け一方ではなく、受けるのは攻めるための準備という戦略だった。


 大山は1956年の名人戦で防衛し、名人獲得5期によって十五世名人の永世称号を取得した。同年7月の名人就位式では、「故郷の父からは、その十五世を五つ取れと激励された。あと四つだと早くても20年かかる。そのぐらいの気持ちで精進したい」と挨拶した。


 その頃の大山は、勝つのが当たり前という気持ちだった。しかし、心の中にいつしか緩みが生じてきた……。


カメラマンの要求で大山は頭を下げる投了姿を…
 1956年の王将戦で大山王将は升田八段に3連敗し、当時の規定で失冠した。さらに第4局は香落ち戦(升田が香を落とす)が行われ、大山は名人の立場で敗れる屈辱を喫した。大山の苦難はそれに留まらず、試練の日々が続いた。


 1957年の名人戦で升田王将は大山名人を4勝2敗で破り、悲願の名人位を初めて獲得した。九段戦(竜王戦の前々身棋戦)でも大山を下したので、史上初の三冠王(名人・王将・九段)に39歳でなった。


 升田は「私が一段と強くなったわけではない。無心の境地がわかり、対局で心の平静さを保てたからだ」と、率直な心境を語った。色紙には《たどりきて未だ山麓》という文言を好んで書いた。


 大山は1956年から58年にかけて、升田とのタイトル戦で敗退を重ねた。朝日新聞社が主催する名人戦では、大山は頭を下げて投了した場面をカメラマンの要求で何回も繰り返した(現代では絶対にありえない)。



タイトル連続50期出場を支えた振り飛車と二枚腰
 大山は《忍》という文言を色紙によく書き、自身の勝負と人生でもそれを実践した。升田に負け続けてもその辛さに耐え、予選を勝ち抜いてほかの棋士に挑戦権を渡さなかった。対局が増えると体力を温存するために、序盤作戦が居飛車より割と楽な「振り飛車」を指し始めた。また、自宅で働いていたお手伝いの人に暇を出す、最寄りの駅までタクシーに乗らずに歩く、煙草をやめるなど、経済的な事情もあって身辺を整理した。


 やがて、大山は不調から立ち直った。升田からタイトルをすべて奪還し、V字回復を見事に果たした。前記の事情で用いた振り飛車を、十八番の戦法に仕立てたのだった。


 大山は1960年代前半に五冠王(名人・王将・十段・王位・棋聖)になった。以降も全盛時代を築いた。升田九段、新勢力の二上達也(九段)、加藤一二三(九段)、有吉道夫(九段)、内藤國雄(九段)らの挑戦を下した。タイトルを失っても、翌期に必ず取り返した。


 大山は1957年から1967年までの約10年間、タイトル戦に50期連続で登場し続けた。これは不滅の大記録で、2位の羽生善治九段でも「23期」であることから、その凄まじさが分かる。


 振り飛車を駆使した大山将棋の特徴は、強靭な二枚腰にあった。終盤で追い込まれても危機を逃れたので、「終盤が2回ある」といわれた。色紙に好んで書いた文言は《助からないと思っても助かっている》。


わざとたくさん食べた升田戦、麻雀も1つの手
 大山は、将棋の勝負は技術がすべてではないと思っていた。


 升田とのタイトル戦の対局では、病弱で食が細い升田に見せつけるように――わざとたくさん食べて自分の元気さを示した。


 また、タイトル戦の対局場に着くと、大山は立会人、記者など関係者と麻雀を打った。それは対局前夜、1日目の夜、終局後と連日に及んだ。対局中は控室で麻雀を打たせ、たまに立ち寄って観戦を楽しんだ。


 大山にとって麻雀は、軽い頭の体操のようなもので気分転換になった。ただ別の目的は、対局場の仕切りを自分のペースにすることだった。相手の挑戦者は、いつしか盤上でも丸め込まれてしまうことがよくあった。


 1960年代半ばから新鋭の中原誠(十六世名人)が台頭してきた。各棋戦で活躍し、棋聖、十段のタイトルを獲得するなど駒を自然に前進させて勝つ棋風は「自然流」と呼ばれた。その中原についてメディアは「将棋界の太陽」と称したほどだった。


 1972年の名人戦で中原八段は、通算18期・連続13期も名人位を保持している大山名人に挑戦した。棋界内外で新名人誕生の期待が高まっていたが、大山は百戦錬磨の強さを発揮。3勝3敗で最終局に持ち込まれた一局は激闘の末に中原が勝利して、中原が24歳で新名人に就いた。


「中原さん、もっと強くなってください」と異例の激励
 メディアは大山の敗退を「巨星堕つ」と表現し、引退をほのめかす記事もあった。しかし大山は「負ける気がしなかった」と語った。


 1972年7月の名人就位式では、大山は「中原さん、もっと強くなってください」と激励する異例の挨拶をした。 前記の言葉を言い替えたもので、名人復位を目指していた。


 大山は1973年の王将戦で挑戦者の中原に敗れた。タイトルが49歳でついに無冠となった。それでも「まだまだ指せる」と力強く語った。毎日新聞は「《ハダカ》の大山なお闘志」という見出しを載せた。


 実際に大山は、50歳以降も驚異的な活躍を続けたのだ……。


<第3回へ続く>




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