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広島への原爆投下機B29「エノラ・ゲイ」に乗って見たこと、考えたこと

2024年08月06日 16時05分07秒 | 歴史的なできごと
広島への原爆投下機B29「エノラ・ゲイ」に乗って見たこと、考えたこと



広島への原爆投下から77年。 今年(2022年)8月6日、広島で厳かに開かれた「原爆死没者慰霊式並びに平和記念式」に出席した岸田文雄首相は、爾後の記者会見で「核兵器のない世界に向けた機運を後退から、再び盛り上げ、一歩一歩進めていく決意を新たにした」と述べた。

8/8/2022

 【画像】筆者が1990年取材した復元修復作業中の「エノラ・ゲイ」(写真30枚) 「核なき世界ヘ」。

 式典会場で、国連のグテーレス事務総長ほか、各国の要人の言葉を耳にした被ばく者の方々の胸に、こうした言葉は、どのように届いただろう。 筆者にとっても、8月6日は、時折、心の穴を意識させられる特別な日だ。


復元中の「エノラ・ゲイ」内部を取材


32年前の1990年8月6日、筆者はフジテレビの取材チームの一員として米国にいた。 米国の巨大なスミソニアン博物館の付属施設で、ワシントンDC郊外にあった「ポール・E・ガーバー・ファシリティ(以降、ガーバー・ファシリティ)」で取材を行うためだった。 当時、スミソニアン博物館の招聘研究員だった床井雅美氏から、B-29型爆撃機「エノラ・ゲイ」のテレビカメラ取材が可能になるかもしれないと知らされたからだった。 

「エノラ・ゲイ」は、1945年8月6日に広島に原爆「リトルボーイ」を投下したB-29改造爆撃機だ。 この1発の原爆で、1945年末までに約14万人が亡くなったと推定されている。 

床井氏の案内で、訪れた当時の「ガーバー・ファシリティ」は、技術歴史上、重要とされる航空機を復元する施設で、敷地内に並ぶ複数の町工場のような建物はエアコンもなく、開け放した窓やドアを通る風と扇風機だけが涼をとる手段だった。 重そうな航空機の部品を載せた台車を手で押したり、古い図面と見比べながら慎重にネジを填め、黙々とコードをつなぐ人々もいた。

 こんな場所に、本当に「エノラ・ゲイ」があるのか? 半信半疑のまま、フジテレビの取材陣は床井氏の案内で「ガーバー・ファシリティ」の責任者の事務所に案内された。 床井氏が、「エノラ・ゲイ」の取材を許可するよう責任者に説得を始めた。 

床井氏が筆者について説明すると、この責任者からいくつかの質問が口頭で投げかけられた。 筆者の軍用機についての知識が試されていたのだ。 後で、上着の背中が汗でぬれているのに気付いたが、暑さだけではなかったのだろう。

 「分かった。書類を作るから、その間に、他の飛行機を撮影すればいい」 そう言われ、第二次大戦中の日本軍機がおかれている場所に案内された。 日本海軍・夜間戦闘機「月光」。

 今日、工場から出てきた、と言われても、不思議ではない程、ピカピカの姿に仕上げられていた。

 復元の担当者は、徹底的に資料を読み込み、変色した写真を見て確認しながらの綿密な復元作業を行ったが、日本人と会うのは珍しいので、機体各所に書き込んだ仮名や漢字が間違っていないか、向きが違っていないか、とても気にしていた。 

機体各所に書き込んである文字の書体は正確だと思うと言うと、ほっとした表情をしていた。 日本海軍が開発した初の純国産ジェット機「橘花」の姿もこの「ガーバー・ファシリティ」にあった。 

復元された特攻機「桜花」は、黄色く塗られて天井からぶら下げられていた。 爆弾を積み、パイロットごと敵に突っ込む「桜花」の姿に筆者は言葉がなかった。 いくつかの軍用機の撮影をしている内に、「エノラ・ゲイ」の撮影許可が出たと知らされた。 


「エノラ・ゲイ」は当時、二つの建物に分けて保管されていた。 一つは胴体を復元中の建物。



「エノラ・ゲイ」の翼とエンジン


もう一つは、主翼、尾翼、エンジンが収められた建物で、こちらは復元作業がまだ行われておらず、「エノラ・ゲイ」の翼が他の軍用機のコンポーネントの隙間に置かれていた。 エンジンが外された主翼は巨大で、説明されなければ、それが「エノラ・ゲイ」のものとは分からなかった。




 しかし、垂直尾翼には黒い円の中に「R」の文字がくっきりと残っており、「エノラ・ゲイ」のものだとすぐに分かった。 外された四基の巨大なエンジン、R-3350のうち二つは建物の中に並べられていた。


「エノラ・ゲイ」の胴体


別の建物で復元作業中だった胴体は、前後に分割されていた。 後部胴体の担当者のひとりは、真空パックの中に収めた古い布袋を私たちに大事そうに見せてくれた。 機体の一番後ろにある銃座の部品の一つだが、ボロボロになっていたので、オリジナルの布袋は、真空パックで保管し、新たに造ったパーツ(布袋)を復元した機体に取り付けたと言う。 そして、ピカピカに復元された後部銃座を手動で動かして見せてくれた。 ウイーンという音をたて、上下左右に滑らかに動く。 

後部胴体の爆弾倉のドアは、開かれていて、下から覗くと爆弾の吊下装置が見えた。 鈍く銀色に光る前部胴体には、黒く「ENOLA」「GAY」「82」の文字が45年間の歳月をものともせず、くっきりと素っ気なく書かれていた。 エノラ・ゲイというのは、機長のティベッツ大佐の母親の名前だという。

 そして、その前部胴体の前には、原爆「リトルボーイ」の実物大模型が置かれていた

原爆「リトルボーイ」は、こうして投下された


全長約3m、直径約0.7m、本物なら重量約4トン。

 尾部に正方形の安定翼を持ち、暗い色に塗られた「リトルボーイ」は、模型と分かっていても重々しい雰囲気を醸し出していた。 前部胴体には、機体の下から潜り込むようにして入った。 ガラス張りのコックピットには、円の上の部分が欠けた半円状の操縦桿。 操縦席に座ってみると、ガラス越しに復元場の建物の天井や床が見える。

 操縦席より前方にあるのが爆撃手の席で、足の下もガラス越しに透けて見える。 爆撃手の席に据え付けられたノルデン爆撃照準器を覗くと、修復場の床が見えた。 1945年8月6日、ノルデン爆撃照準器を覗いた「エノラ・ゲイ」の爆撃手フィアビー少佐の眼には、広島が映っていたのだろう。

 前部胴体の後部上下には、オリジナルのB-29爆撃機の場合、12.7mm機関銃の機関銃座があったが、エノラゲイの場合は、前部胴体上下の機関銃座が外され、それで空いたスペースには、大きな丸い蓋が設置され、機体左側には古めかしい大きな機械が設置されていた。 床井氏の説明によれば、この機械は原爆「リトルボーイ」に送る電力をモニターする装置ということだった。

爆撃手のフィアピー少佐は赤いカバーを跳ね上げ、スイッチを入れたはずだ。

 「リトルボーイ」爆弾投下の自動時限装置のスイッチだ。 筆者も、このスイッチの前に立った。 わずか、数cmの距離に手指を延ばしたが、赤いカバーを跳ね上げ、爆弾投下の自動時限装置に触るどころか、赤いカバーを跳ね上げることもできなかった。 

なぜなのか、ある種のわだかまりだったのかもしれない。 フィアピー少佐が爆弾投下自動時限装置を入れると、やがて、胴体中央部の爆弾倉のドアが開き、リトルボーイを支えていた吊り下げ装置のフックが外れ、リトルボーイは広島上空に投下された。 

復元途中の機体に取り付けられたリトルボーイの吊り下げ装置にも、頑丈なフックが付いていて、筆者が体重を掛けて引くとガタンと音を立てて戻った

。 復元担当者の話では、「リトルボーイ」の吊り下げ装置は、戦後45年経っても、機密が一部解除されていない特殊な装置で、様々な箇所を推定しながら、復元、新造したという。 

前部胴体機内の一番後ろは圧力隔壁になっていて、その真ん中には、爆弾投下確認用の丸い窓があった。 投下されるリトルボーイを「エノラ・ゲイ」の乗組員の一人が、この丸窓から確認したのだろう。 広島上空約570mで「リトルボーイ」は、核分裂反応を起こし爆発した。 推定爆発威力は、高性能爆薬に換算して約16キロトン。 さらに、ガンマ線や中性子線を放出。 前述の通り、1945年12月末までに約14万人が亡くなったと推計され、多勢のヒバクシャも生んだ。 ヒバクシャ、そして、核兵器に対して世界はどのような姿勢で臨むのだろうか?





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