京のにちじょうさはん ごこう

京都在住19年目の浜っ子の日記。其の弐。

私の「鎌倉物語」 心残り編

2007年10月21日 | いとしの湘南
今回、とても行きたかったのですが、行くことができなかった場所を少し。










仏法寺遺跡
極楽寺が和賀江島の管理権と「前浜」(由比ヶ浜)の殺生禁断権を保持していたことを考えるときに、ずっと些細なことが気になっておりました。
それは極楽寺と、和賀江島・前浜との位置関係です。
極楽寺は、極楽寺坂切通しを西に越えた「鎌倉」の外にあります。「鎌倉」の中には、坂ノ下の馬病舎や長谷の桑ヶ谷療養所のような極楽寺の出先機関はあるものの、極楽寺自体は切通しを越えた、それも谷戸に位置しておりましたので、眺望がよろしくありません。もちろん、現地に役人を派遣してあるでしょうが、どうやって和賀江島なり前浜全体を把握していたのだろうかと、気になっておりました。
しかしこれは先日解決できました。
極楽寺坂切通しの南側の山・霊山(霊鷲山=画像の山)には、13世紀後半~17世紀中ごろにかけて「仏法寺」という極楽寺の有力末寺がありました。この仏法寺跡からは、坂ノ下から由比ガ浜・和賀江島までが一望できることが分かりました。ここから極楽寺は、前浜の様子、和賀江島の様子を監視していたのでしょう。
この「仏法寺跡」は、近年の発掘調査を踏まえて国指定史跡となり、現在は現地に入ることができなくなっているそうです。
残念ですが、今回は現地に行くことをあきらめました。
はやく整備されてほしいですね。
なお、西岡芳文氏が『有鄰』№474で、「石井進先生が、仏法寺と霊山寺[りょうせんじ]は一緒でいい、霊山崎にある寺だから、霊山寺と言っていたのではないだろうかとおっしゃっていたような気がします」とお話になっていましたので、その典拠を探してみました。これは、元弘三年八月日付「武蔵熊谷直経軍忠状」(って、明らかにこの文書名は誤りですね)(「長門熊谷文書」/『鎌倉遺文』32517号(第41巻-360頁)の新田軍に加わっていた熊谷直春が「鎌倉霊山寺」の下で討ち死したとある箇所ではないかとみられます。
なお、『有鄰』№430も興味深い内容となっております。








忍性墓
極楽寺の裏山にある忍性墓という五輪塔を拝見したかったのですが、普段は公開されていないようです。
そのため、グランドの金網越しにそのあたりを写しました。








江ノ島の岩本楼

中世、江島神社は神仏習合で金亀山与願寺といいました。その坊のひとつが「岩本坊」であり、のちの岩本院、現在の岩本楼の前身でした。
こちらは、洞窟風呂・ローマ風呂で有名ですが、
そのようは歴史をお持ちゆえに、鎌倉時代以来の文書や仏像・絵巻などをご所有されているそうです。
その一部は、宿泊客にも公開されているそうです。
なお、江の島に関しては、個人のかたのとてもすばらしいHPがあり、そこでこちらの縁起絵巻も公開されています。
ぜひぜひこれらを拝見したいものですが、やはり宿泊をしないといけませんでしょうかしら。