【ISOWA PRESS】

ISOWA発、お客様、業界関係者様にお送りさせていただくメールニュースです。
お仕事の合間にお気軽にお読み下さいませ。

第242号:『なぜISOWAは100年企業となることができたのか ~ISOWAの歴史を振り返る~』

2020年01月01日 | Weblog
皆様、明けましておめでとうございます。
本年もどうぞ宜しくお願い致します。
2020年第1号【ISOWA PRESS】は東日本グループの稲垣が担当させていただきます。

さて、ISOWAは今年創業100年を迎えることができました。
今年創業100年を迎える会社は他に1176社あり(帝国データバンクより)、マツダ様、イトーヨーカ堂様、リンナイ様などが挙げられます。業種別としては製造業が287社で最多となっています。
このような大企業様と並んで100周年を迎えることができるのも、お客様のご支援のおかげでございます。ありがとうございます。
今後とも変わらぬお引き立てのほど宜しくお願い申し上げます。
またこのご恩を御返しできるよう、一丸となってさらに「止めません、止まりません」を追求して参りたいと思います。

弊社には勤続50年を超える大ベテランが数名現役で活躍しており、当時の話を聞くことができます。しかしそれは100年の歴史の後半であり、その時代があるのも前半50年があったからこそです。近年のISOWAについては、メール、社長ブログ等あらゆる方法でお伝えしておりますので、今回は「なぜISOWAは100年企業となることができたのか~ISOWAの歴史を振り返る~」をテーマとし、簡単ではありますが、創業当時や、その後の発展について歴史をご紹介し、100年続いている理由を探りたいと思います。
尚、ご紹介にあたり、企業名や個人名の敬称は省略させて頂きますので、悪しからずご了承下さい。


【ISOWAの成り立ち】

ISOWAは、1920年に創業された紙器機械メーカーの蓑田鉄工所名古屋工場を前身として、ここまで歩みを進めています。
蓑田鉄工所は大阪が本社で、本社の創立時期は不明です。しかし業容拡大に伴い、東京、
そして1920年に名古屋工場を開設し、ISOWAの創立者である磯輪源一が偶然同工場の
前を通りかかり、求人広告を見たことからすべてがはじまりました。入社後、昭和4年世界大恐慌の影響で、蓑田鉄工所本社が経営不振になる中、業績が順調であった名古屋工場を分離する形で、昭和6年合資会社蓑田鉄工所名古屋工場が誕生し、その際磯輪源一が経営に加わりました。その後わずか、5か月後、代表の蓑田氏が逝去。磯輪源一が社長となり、昭和8年名古屋市中区から北区に新工場を建設し、独立を果たすこととなりました。
昭和13年合資会社を解散し、蓑田家の方々は会社を去りましたが、「蓑田」というネームバリューがあったため「磯輪」とはせず、社名そのままで個人経営で事業を続けることとなりました。


【株式会社磯輪鉄工所誕生】

2代目社長となる磯輪英一は名古屋工業専門学校(現在の名古屋工業大学)にて機械工学を学び、株式会社大隈鐵工所(現在の株式会社オークマ)様にて1年研修を受けたのち、昭和24年蓑田鉄工所名古屋工場へ入社しました。
最先端の技術を身に付け入社しましたが、当時の仕事の半分は大隈鐵工所の下請仕事も多く、社員20名弱の小さな会社でした。昭和25年朝鮮戦争による特需により日本の景気が上向きとなり、本来の紙器機械の仕事も増え、業績は次第に回復していきました。これを受け、昭和27年株式会社磯輪鉄工所が設立されました。


【プリスロのISOWA】

「プリスロのISOWA」先輩方と話しているとたまに聞こえてくる言葉です。
ここではその言葉について少しひも解いてみたいと思います。
ISOWAがプリスロを手掛け始めたのは、昭和30年頃、当時プリスロは日本で10台程しか稼働しておらず、お客様からのリクエストを受け「ジュウセット付横通式2色印刷機」という名前で開発しました。その後、設計事務所に協力を仰ぎながら磯輪英一の手によって後継機である「6R」「7R」が生み出されました。
しかし、他社が高性能プリスロを開発し、6R、7Rが性能として劣る機械になってしまう時期が到来し、ISOWAは頭を悩ませました。その当時は不安感が漂い、「眠れない夜が続いた」と磯輪英一は語っていたそうです。
そこから、他社の性能に負けず、なおかつ他社よりも安価な機械の開発を目標に掲げ、昭和38年「PS-2」を発表し、好評を博しその後もこのPSシリーズは多くのお客様から求められました。
これが「プリスロのISOWA」といわれた由縁です。


【さらなる発展を求めて】

ISOWAはこれまでに数社の海外機械メーカーと技術提携を結び、日本より進んでいた海外の技術を取り入れ、時代に沿った機械をご提案して参りました。ここでは4社をご紹介しながら当時を振りかえってみたいと思います。


1.ジェネラル・コルゲーティッド・マシナリー社(米国)

昭和30年代後半、段ボール箱製作がワイヤージョイント箱からグルージョイント箱に移行し始め、生産性の高いフォルダグルアが注目されていました。他社が海外メーカーとの技術提携によりフォルダグルアを開発する中、ISOWAは独自で開発を進めており、技術面で大きく遅れをとっていました。
そこで海外メーカーとの技術提携を目指し、その候補先として米国のジェネラル社を選びました。10か月にわたるラブコールの末、昭和39年、磯輪英一が単身訪米しましたが、聞いたこともない日本の会社からの申し込みにすぐに応じるはずもなく、何度も足を運びました。そして1週間ジェネラル社へ通い詰めたのち、その熱意が認められ、ついに技術提携を結ぶことができました。
これによりジェネラル社のセミオートグルアを国内にて販売できることとなりましたが、売上は思ったより伸びず、さほど効果はなかったかのように見えました。
しかし、ジェネラル社はプリスロを扱っていなかったため、「ISOWAのプリスロをぜひアメリカで販売したい」という話となり、思わぬ形でアメリカ進出を果たすことできました。昭和41年アメリカ向けのプリスロ第1号が輸出され、アメリカの機械と遜色ないと評価されその後何台も出荷されました。


2.ワード社(米国)

セミオートグルアに続き、業界で注目が集まっていたのがロータリダイカッタでした。
磯輪英一は早くからロータリダイカッタの将来性に目をつけ昭和38年から試作を重ねていました。が自社開発は思ったように進みませんでした。当時国内では、ハードカット方式のダイカッタのみ製造されていたことから、磯輪英一は将来主流になると考えたソフトダイカッタを採用しているワード社との提携を考えました。
ワード社はロータリダイカッタのトップメーカーであり、ジェネラル社以上に提携には困難を極めると予想されていましたが、ワード社は歴史が浅く、技術提携の経験もなかったため順調に話が進み、昭和41年に契約を結ぶことができました。
1日でも早く国産化を成功させようと奮闘し、同年11月国産ロータリダイカッタの公開試運転を実施することができました。その後多くのお客様よりご注文を頂き、ロータリダイカッタはプリスロとの2枚看板でISOWAの成長に貢献しました。


3.ユニバーサル・ヨーロッパ社(スイス)

ISOWAがヨーロッパへプリスロを販売したいと考え、販売提携を結んだのがユニバーサル・ヨーロッパ社でした。昭和41年磯輪英一はヨーロッパにおけるISOWAのプリスロ販売代理店として選んだユニバーサル社を訪ねました。するとフォルダグルア専門メーカーであったユニバーサル社はプリスロを切望しており、ユニバーサル社のフォルダグルアにISOWAのプリスロを連結してヨーロッパで販売する計画が進み始め、販売提携が合意されました。連結可能なプリスロを開発するために、ISOWAの技術者が現地へ赴き、ヨーロッパのプリスロを研究、当時開発中であったPS-5・6を修正し、新たにPS-5B・6Bとしてヨーロッパに送り出しました。ヨーロッパでの市場開拓に成功し、当時は組立工場で何台もの海外向け同機種が組まれていました。


4.コッパース社(米国)

当時世界の段ボール機械メーカーのビッグ3の一つとして数えられていたのが、コッパース社です。他2社はラングストン社、S&S社であり、それぞれ国内他社メーカーと提携していました。日本進出を望んでいたコッパース社とフォルダグルアの技術を求めていたISOWA、両社の思惑が一致し、昭和44年コッパース社と製函機に関する技術提携を結びました。コルゲータの技術のためにも昭和47年コッパース社との合弁会社「イソワ・フーパースィフト」を発足。同社はコルゲータオートスプライサ、騒音防止装置、ラミネータ等の製造、販売を事業内容とし、現在の株式会社イソワ・フーパースィフトの前身となります。
この会社名のフーパースィフトとは、コッパーズ社が買収したコルゲータ機械を製造していたフーパー社と、印刷機を製造していたスィフト社の両社の社名が由来です。コッパース社との合弁会社でしたが、フーパー・スィフトの名前が採用されました。この提携によりISOWAのコルゲータ技術は大きく前進しました。
また、このコッパース社へは現社長磯輪英之が大学を休学し、約10か月間勤務していました。当時はISOWAと技術提携をしたことを知らない社員に「お前、スパイに来たのか」と言われた一幕があったとか。とはいえ友好的な社員も多く、皆と仲良くなれたと磯輪英之は語っています。


【その後のISOWA】 

その後、ISOWAは日本初のNC(数値制御)装置を主体としたシステム「INAC」や、プリスロの常識を覆す、ロール本数を7本→2本で可能とした「エクシード」の開発に成功しました。これはその後の「スーパーフレックス」「ハイパーフレックス」へとつながっていきました。
そして、平成13年6月磯輪英之が第4代目社長となり、風土改革に着手。「ISOWAは止めません!止まりません!」を掲げ、その成果の一旦として、大ヒット製函機である「アイビス」等の「i機」を生み出しています。


以上、駆け足ながらISOWAの歴史を振り返って参りました。「へーそんな歴史があったのか」とお楽しみいただけたのならうれしく思います。
振り返ってみると、ISOWAはその時代時代に必要なものを取り入れ、変化してきたと言えます。「企業は環境適応業である」という言葉にあるように、変化を恐れず挑戦し続けてきた歴史がありました。
そして100周年を迎えるのもこれまでの先人たちの尽力と、関係お取引先の皆様のご協力、何よりも全てのお客様のご声援のおかげであると実感します。
ISOWAが今後150年、200年と続く企業になるよう、一層、挑戦していきたいと思います。
長文となりましたが、お付き合いいただきありがとうございました。



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