【70才のタッチ・アンド・ブースト】ーイソじいの”山””遍路””闘病””ファミリー”ー

【新連載】 『四国曼荼羅花遍路-通し打ち45日の マイウェイ』

四国曼荼羅花遍路-通し打ち45日の マイウェイ 42 写真は結願の寺88番札所 大窪寺参道 山門下

2022-12-25 17:28:11 | 四国曼荼羅花遍路 通し打ち45日のマイウェイ 菩提の道場(香川県)編
(42日目・6月1日) いろんな思いが駆け巡りながら結願の寺 大窪寺へ
 晴れ。6:10起床・朝食→7:15出発→8:55前山遍路交流サロン10:10→道の駅 ながお
10:45→遍路道昼寝城址道→太郎兵衛館→女体山超え(頂上直下はロッククライミン
グ状態)→14:15女体山頂→昼食→林道下り→15:15結願の寺 大窪寺16:00→寺前茶店 
八十八屋→16:40遍路宿
(二代にわたりお世話になった長尾寺前の遍路宿)
 朝食を頂いて出発の準備で荷物整理をしていて、すべてが名残惜しい。朝食もご一
緒だった同宿の歩き遍路さんは私より30分以上前に出発されたようで、私はその分ぐ
ずぐずしていた。気を引きしめて7時過ぎに出発。長尾寺門前から遍路道に出て右折
し、やがて県道3号線と並行するように遍路道が続いている。地道の遍路道には休憩
所や善根宿がある。そのうちに県道に合流し道路補修の工事が続き工事用トラックな
ども走り少し歩くのも緊張したが、1時間強で前山ダムが見え、ダムサイトの前山おへ
んろ交流サロンや道の駅ながおの建物や駐車場に着いた。記憶違いかもしれないけれ
ど、20年前は県道をはさんで西に交流サロンがあって、ダムサイト側にうどん屋さん
があったような気がしたのだが、逆になっていてダムサイト側により充実した記録や
資料が展示されているおへんろ交流サロンがある。
(左:前山ダムへの途中の善根宿、右:前山ダム)

(左:おへんろ交流サロンの展示①、右:歩き遍路への記念品類)
 おへんろ交流サロンには四国遍路の開創やら由来、弘法大師空海や88箇所の札所を
定め自らも10回以上通し打ちをして『道しるべ』を著した江戸時代大阪の真言宗高野
聖真稔さんに関わる人の資料、歴史をたどるような納経帳や般若心経、白衣などの展
示があり、興味深く見学させていただいた。休憩スペースに『歩き遍路は申し出てく
ださい』と掲示があり、私は『途中一部公共交通機関を利用したが、ほとんどは歩き
遍路』と申し出ると、『少々お待ちください』と言われ、すぐに『四国八十八ヶ所遍
路大使任命書』『同行二人の徽章』『88札所の立派なスライドショーDVD』を記念品
としていただいた。嬉しい、心に残る記念グッズとして大切に。おへんろ交流サロン
で1時間以上ゆっくりと余韻を楽しみ、隣接の道の駅によって10:45に出発。
(左:交流サロンの展示②、右:展示③)

(遍路道の女体山への道しるべ)
 ここから遍路道はいくつかに分かれるが、今回は女体山越を目指して昼寝城址道を
歩いた。ダムサイトの県道3号を歩き、しばらく行くと地道へと入っていく。すぐに遍
路道中物故者供養碑などがあり、道半ばで倒れられた多くの遍路さんが偲ばれる。暫
く行くと右の方にかつて東讃岐の豪族寒川氏の居城であった昼寝城の城址へ続く道が
あったが、今回はスルー。おへんろ交流サロンから約2時間で太郎兵衛館跡がある。
太郎兵衛さんは修験者とか地元の山人かの説があるらしいけど実在した方とのこと。
現在は今は使用されず廃墟になっているが、大学の農林関係の研修所として使われた
建物が残っている。この跡地から右手の山道が、いよいよ女体山越えの遍路道の入り
口。
(左:遍路物故者碑、右:女体山登り口)

(左:この先はロッククライミング状態、右:ほぼ水平の目線で)
 遍路道はそれなりに整備されているけれど荒れていた。最後の山頂への難所はちょ
っとしたロッククライミングで、金剛杖を手に持ったり底の柔らかい靴に緊張を強い
られた。写真の岩場はカメラの目線がほぼ水平に近かったので、このままの高度感が
ある。実際に頂上直下の安定した鎖場までは高度差10m以上はあるかと思うが、実際
に雑木の間を抜けたところは東讃岐の素晴らしい展望で、昨日歩いてきた屋島、八栗
寺、志度寺、と瀬戸内・播磨灘方面、長尾寺方面が一望の大展望だった。この道は遍
路道の一つとされているが、誰でもが行ける道でもないので要注意。あとで納経所で
聞いたけれど時々転落事故が起こっているとのこと。特に逆打ちで下っているときに
転落しやすいとのことで、十分実感する。
(左:頂上直下からの東讃遠望、右:女体山頂、山岳会の人と写真撮影の交換)
 岩場に取りついたときに、後方から10名以上の男女のパーティがにぎやかにおしゃ
べりしながら登ってきていた。『大丈夫かなあ』と気にしながら頂上直下の展望所で
写真を撮っていると、変わらず皆さん平気で登ってこられた。14:15すぐ上の山頂広
場の東屋で休憩していると皆さんが登ってこられた。リーダーらしき人に
 「皆さん、ヒョイヒョイと登ってこられたようで、たいしたもんですねえ。山の会
かなにかのグループさんですか?」
 と聞くと、高松の山岳会で四国88札所を区切り打ちで歩き遍路を続けていて、今回
が最後の結願の遍路です、とのこと。納得。皆さん晴れ晴れと楽しそうで、ご一緒に
昼食(行動食)タイムとし記念写真を撮りあった。山頂から結願の寺大窪寺には1km
以上の距離の下りだけれど、地図では下りの尾根道でそんなに問題はなさそうだけれ
ど、下り道でしかも登りは厳しい道だったので、ここは時間はかかるけど舗装された
林道を下ることとした。約30分の下りで大窪寺に至り、道を回り込んで歩き遍路のウ
ェルカムゲートである山門(仁王門)から入り、2022年6月1日15時15分、四国88霊
場結願の第88番札所 大窪寺に到着した。
(左:結願の寺に到着、右:ウェルカムゲートの二王門)
(左:大窪寺本堂、右:本堂前で自撮り) 
 本堂の前で自撮りし、余韻を感じながら大師堂そして境内を散策し、納経を済ま
す。20年前に足がボロボロになり、足を引きずり心の中では泣きながら歩いた境内や
その時の賑わい、いろんな思いが浮かんでくる。境内を出て門前の土産物屋さん兼飲
食店で閉店の準備中のようだけど、申し訳なさげに山菜の盛り合わせを注文し、ノン
アルコールビールで一人乾杯。実はこの通し打ち中で、何度か飲酒欲求に誘惑された
けど、その都度ポカリスウェットやオロCでしのいできた。さすがに美味しかったけ
れどやはり本物ではなく、『おかわり』とか『浴びるほど』とはならない。そのうち
余韻も落ち着いてくる。よかった。
 土産物屋さん兼茶店さんでゆっくりして、16:45に結願の寺前の遍路宿さんに入
る。きれいな宿でした。部屋には浴衣も用意されていてまず入浴して汗を流す。今日
の入浴は通し打ち43日間のいろんなことに思いを馳せながら流す汗で格別の入浴だ。
入浴後に浴衣に丹前も気持ちを安らげて頂ける素敵なプレゼントでした。それぞれの
部屋には清潔なトイレが敷設されてあり、宿によってはトイレに行くのに気を使いつ
つといったところが少なくないのですが、それも細やかな心遣いを感じさせていただ
ける。夕食の案内があり食堂へ集まると、年配の男性の歩き遍路通し打ちの方がお二
人。寡黙な方で自己紹介もごく簡単にかわす。そのうちに、女性の通し打ちの方がコ
ミュニティバスの最終便で到着されて合流した。この方は女将さんと電話でやり取り
していて、宿に着いてすぐに親しげに話されていた。まもなく大女将さんも合流し合
計6名で夕食。本日の夕食はメーンが結願お祝いで、お赤飯。お造り、煮物等も付い
て大御馳走でした。私はオプションでノンアルコールビールも頂きました。
皆さん、結願の充実感と言うか単純にFREADE(歓喜)と言うか、心が軽くなってき
たのでしょうか、だんだんと話が弾みだしてきました。一番ご年配と思われる男性
は、今回は88札所のみならず別格20霊場も周り合計108ヵ所を回られたとのこと。そ
して今回で『杖を納めようと思う』と言われた。大女将さんが
 「杖はお大師さんの分身やし、杖を納めるといってもお金も取られるし、いいことも
    ないよ」
  と言われる。こういうことは大女将さんの私心のない度量の深を持つ人のみが言え
る言葉なのだろう。もう一人のやはり寡黙な男性は、73番札所 出釈迦寺の奥の院に
なる弘法大師の『身投げ堂』に登られたことを話された。私は登っていないけれど、
よほど心に残ることを感じられたのだろうと思う。
    私は、一部公共交通機関を利用したり、松山からは現地調達の足踏みペタルのママ
チャリを移動手段にしたけれど、ほとんどは歩き遍路で通したことや”NO 
WAR””Respect HUMANRIGHTS”のゼッケンのこと等を話したけれど、どうも自己ア
ピールの様でなんとなく場違いの感じで、あとで恥ずかしく感じた。
   最終のコミュニティバスで合流した女性は活発に話され、バリバリの『鉄子さん』
で、17日間で通し打ちをしたとのこと。にわかには信じがたかったけれどお話を聞
くとネットで調べまくりローカル線はもちろん路線バス、コミュニティバス、不定期
運行のバスや交通機関も調べ上げての遍路で、感心しつつも納得した。明日は一旦高
松に戻りそこから高徳線で徳島に移動、フェリーで和歌山の深日(ふけ)から高野山
にお礼参りをして、出発地(名古屋と言われたかと思う)へ戻る計画。凄い、と内心
エールを送る。実際に全く交通手段のない札所もいくつもあるのに、情報量だけでな
く体力も『交渉力』も必須だと思う。
    大女将さんは御年90才で、70年前に初めて遍路をしたそうだ。
「それでは、戦後間もないときで大変だったでしょう?」
   と尋ねると、
「毎日お百姓さんに稲の藁を頂いて草履を作りながら旅をした。結願までに5~6足は
   履き潰した。」
「お百姓さんの家や納屋に止めていただいたけれど、米を持っていかなければご飯を
   食べさせてもらえなんだ。」
   とのこと。
   この長い通し打ちの遍路宿で、御主人や女将さん、大女将さんも混ざってほかの遍
路さんと心を開いて話し合ったのは初めてではなかったか。
(八十窪の大女将さん、女将さんと)
部屋に戻り、明日、明後日のお礼参りの打戻にワクワクしながら、心地良く就寝した。
(本日移動距離  22.2km  全部歩行 30,030歩)

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