さて、もろもろの雑事からいっとき開放されそうな予感の今日、3月22日。私がまずしたことは、タスクの交通整理ボードの付箋のリニューアルだった。
さしあたって、「期限はないからおいおいお願いネ」と他所から頼まれていた様式づくりをかたづけることにしよう。今やっておかないと、またまた後回しにしそうだからである。
次に2011年度完成工事の分析をする。
その次は2012年度にどういう取り組みをしていくか、についてをまとめる。
最後のやつがメインであり、ここ何ヶ月かずっと考え続けてきたことである。
テーマは、「渋滞からいかにして脱け出すか」。
さて羽生善治が提示した高速道路論の難問とは、「素晴らしい高速道路はできたものの、高速道路を走り抜けた先には、「大渋滞」が待っているぞ、そんな時代に我々はどう生きればいいのか」であった。私なりに何年間か考え続けて出した結論は、次の通りである。
・・・大渋滞の存在にかかわらず、自分が好きなことについて目の前に高速道路が広がっているのだから、とにかく行けるところまで突っ走ってみよう。そして仮に大渋滞に差し掛かったら、その専門をさらに突き詰めて大渋滞を抜けようとするか(「高く険しい道」)、そこで高速道路を降りて、身につけた専門性を活かしつつも個としての総合力をもっと活かした柔軟な生き方をするか(道標もなく人道がついていない山中を行くという意味で「けものみち」と呼ぶ)、そのときに選べばいいじゃないか。
『ウェブ時代をゆく』(梅田望夫、P.101より)
我が社が少なからずとも高知県の公共土木の世界では、ここ数年先行者であったことだけは間違いがない。
そして今、走ってきたそのルートが先頭のほうで渋滞を起こし始めていること、その中でもどんどんと我が社の位置が下がってきていること、も間違いがない(というのが私の認識)。
先頭をきって走るつもりは毛頭ない。だが、渋滞から脱け出そうとするアクションを起こさなければ、惰性の中に埋没してしまう。
まずは、「渋滞のなかにある」のだという認識の共有から始めなければいけないのだが言うは易し。それがまた、なかなかの難問なのである。
「こんな簡単なことがなぜ認識できないの?」という問いは、認識できない人にとっては「簡単なこと」ではないから理解が出来ないのだ。
という前提に私が立って、高みから認識の共有を押し付けるということを止めること。これが肝要なのではないだろうか。
ではどういうふうにすれば良いのか?
何が良くて何が悪いのか。何が通用して何が通用しないのか。変えなくていいのが何で、変えなくてはならないのは何か。
そこから再スタートかなとは思うものの、それもまた、言うは易く行うは難し。
すると、「あ~、だからどうなのよ」と別の私がツッコミを入れるのだが、こんなこと今に始まったことでもない。
「わからないからやる」「わからないけどやる」が、いつもの私のやり方だもの。
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